石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第二節 越中平定

この際越中阿尾の城主菊池右衞門武勝の來降によりて、益前田氏の勢力を加へしめたり。通説に從へば、この事天正十三年四月に在りとせらる。曰く、是より先成政は、富山に於いて新たに馬場を造り、その兩側に多く櫻樹を栽ゑ、諸將を饗して之を觀覽せしめき。この日武勝興に乘じて、親ら帶ぶる所の副刀を脱し成政に献じて曰く、これ所謂鬼神大王の寳刀にして、謙信の嘗て我に與へし所なり。今謹みて主君に呈す。願はくは主君この刀を提げて北陸平定の功を成せと。成政怫然として曰く、汝焉んぞ乃公の志を知らんや、我は天下に覇たるを以て素願とするもの、北陸七州の如きは眼中に無き所なりと。武勝大に之を恨み、遂に利家に降を容るゝに至る。武勝の前田氏に歸せんとするや、先づその子十六郎安信をして、利家の臣富田景政に就きて之を諮らしめしに、景致は之を村井長頼に牒し、而して長頼は利家に告げ、遂に兩者の意志を疏通せしむるを得たり。是を以て十二日利家兵を率ゐ堂々として阿尾城に入る。守山の守將神保氏張之を聞きて大に驚き、急を成政に告げしかば、成政は一たび馬を守山に進めたりといへども、遂に利家の精鋭に敵する能はざるを知り、敢へて自ら戰を挑むことなかりき。利家乃ち前田利益及び高畠九藏を置きて阿尾城を守らしめ、長頼をして高窪城に一撃を加へしめ、以て金澤城に歸れり。而も氏張は阿尾城の敵手に委せられたるを遺憾なりとし、六月二十四日氷見を略し、進みで阿尾に薄りしを以て、城將前田利益は出でゝ之を拒きしが、衆寡敵する能はずして將に敗衂せんとせり。然るに偶村井長頼こゝに來り、直に手兵を率ゐて敵背を撃ちしを以て、僅かに之を退くることを得たりと。この説一たび末森記の唱ふる所となり、爾後の諸書皆之に從へり。然りといへども、利家が武勝をして我に屬せしめんとせしことは、去年十一月以來荐りに畫策したる所にして、假令櫻馬場の一齣の如き劇的場面なかりしとするも、南朝忠良の遠裔たるを自負する武勝が、日に月に成政・氏張の輩に壓迫せられて、地を割かれ勢を削らるゝを屑とせず、寧ろ去りて温厚信義の人前田利家の與黨たらんと欲したるは、最も當然の徑路を辿りたるものと見るべく、毫も之を怪しむを要せざるなり。且つ利家が武勝にその媾和條件を示したるは七月四日にして、當時尚『此儀おんみつ可仕事心得申候。』といひ、而して同月二十八日に至りて誓紙を與へたる事實を明瞭なりとせば、誰か四月の交既に前田氏の諸將が阿尾城に入れりとの記述を信じ得んや。末森記の後世を誤らしめたる罪淺からずといふべし。

 其後は忩劇に付而無音、御床敷候。今度之錯亂如何見付候哉。御家中にも端々申者有之儀候。大形相究筋も御入候。貴老之儀は、前邊より不自餘申談事候之間、此砌談合申度存候得ども、彼方丈夫に質物等をも被遣置候由之間、結局御爲と存、不其儀候、若御才覺にも可成子細候者、御分別此節候。跡御成候而は如何と存事候。態委不申入候。恐々謹言。
    十一月八日(天正十二年)                     利   家 在判
      菊 右入道殿
          御宿所
〔寸錦雜録〕
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