石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第一節 末森の戰

成政の軍は先づ加賀方面を脅し、次いで能登方面を襲ひしも、共に何等の好果をも得る能はざりしを以て、將に大軍を動かして末森城を陷れ、加・能二國の連絡を截斷して大に爲す所あらんと計畫せり。因りて成政の軍は、九月八日の夜に入りて木船を發し、礪波郡宮島より澤川に出で、その地の農田畑兵衞を嚮導たらしめて羽咋郡牛首に向かひ、更に西方庵といふ者を先驅となして山路を越え、その先鋒は吾妻野・天神林に進み、本隊は坪井山麓に營を布けり。或は曰く、田畑兵衞は素より心を前田氏に歸したるを以て、故らに越中軍をして險難の樵路を越えしめき。是を以て越中軍の疲憊甚だしく、十一日に至りて僅かに吾妻野に達することを得たりと。この説固より虚誕にして採るに足らず。蓋し成政末森城包圍の形勢を取りしことの九日にあるべきは、之を諸書に徴して明瞭なる事實なればたり。然りといへども兵衞が越中軍を嚮導せんとする際、直に之を奧村永福に密告せりとの事は、田畑家の由緒に傳へらるゝ如くなるべく、兵衞は後にその功を賞せられて、祖先傳來の山林利家より安堵せしめられたりき。この山林の廣袤は幾何なりしやを知らずといへども、慶長十年礪波郡檢地の時に至り定めて高十一石三斗とせらる。