石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第一節 末森の戰

九月四日利家使を秀吉に遣はし、成政の反状既に顯れたるを告ぐ。時に秀吉美濃に在り。長湫の失敗以後、到底急に家康を屈服せしめ得ざるべきを知り、且つ家康と雌雄を決せんが爲に、その全力を傾倒するの不利なるを思ひしを以て、丹羽長秀を介して調停を計らしめつゝありしが、利家の報を得て大に悦びて曰く、吾輩夙に成政の操守なきを知る。是を以て利家金澤に置きて、彼の進路を扼せしめしなり。若し夫れ成政利家二人をして互に相戰はしめば、利家の軍假令寡少なりとするも、その勇武尚能く成政の勢を摧くを得べし。たゞ加賀・能登二國越中に境する所甚だ長きに過ぐるが故に、一朝成政の之を突破するあらば、防禦の頗る困難なるものあるが如しといへども、利家かの地に在らん限りは、以て意を安んずるに足るべし。不日東海の干戈戢まらば、余直に往きて利家に力を戮さんと欲す。望むらくは自ら進みて戰端を開くことなからんことをと。即ち使者を賞して黄金三十枚を與へ、別に書を裁して利家利長父子に應へたりき。

 四日の御状、今日到來令披見候。此表之義所々手堅依申付、敵方種々有懇望候。三介殿御料人(信雄女)、家康惣領子十一(秀康)に成候を被出、其上家康舍弟(定勝)重而出、石川伯耆實子、源五(織田長益)殿・三郎兵衞(瀧川雄利)實子出し、尾張國におゐて雖懇望候、不能許容候處に、色々越前守(丹羽長秀)異見被申候條、思案半之儀に候。然ば越州廿日比には、何之道にも可開陳候。越中え行義、はや越州と令談合相定候間、佐々内藏助山取以下仕候とて、聊爾なる働御無用に候。うちばに被相構越前守被罷越候を可待義專用に候。自然不待に付越度候而者、可其曲候。猶使者へ申渡候。恐々謹言。
                           筑 前 守
    九 月 八 日(天正十二年)                 秀   吉 在判
      前   又  左(利 家
            御  返  報
〔温故足徴〕
       ○

  至境目、佐々藏助罷出付而、各被相動(働)、情入由尤候。此表丈夫に申付、人數不入候條、惟越五三日中(惟住越前守長秀)に開陣候て、財其表へ出陣候。其間を無越度樣に、聊爾之働有間敷候。爲其申遣候。恐々謹言。
                           筑 前 守
    九 月 八 日(天正十二年)                 秀   吉 在判
      前田孫四郎(利 長)殿
            御  陣  所
〔温故足徴〕