第一章 領主及び領土
天明六年能登國内の加賀藩領十七村を幕府領とし、幕府領八村を加賀藩領とす。これ千路潟沿岸その他に境界に關する論爭ありたるを避けんとしたるに因る。これより後千路潟は全く加賀藩の有となりたるのみならず、その幕府に與へたるは高千九百九十六石五斗にして、加賀藩の得たるは二千八十七石六斗九升五合二勺とし、利する所甚だ多かりしを以て、毎年金八百三十兩三分永六十二文五分を千路潟網打代として上納することゝなれり。千路潟とは今の邑知潟をいふ。この時加賀藩領となれるは、羽咋郡の千路・中山・上棚・二所宮・安津見・町・佛木・安部屋にして、幕府領となれるは羽咋郡の福水・阿川・燈・楚和・尊保・入釜・鵜野屋・切留・豐後名・地保・神子原、鹿島郡の田岸・別所・谷内・深浦・黒崎なり。これ等の中、福水・豐後名・神子原・田岸・外・別所・谷内・深浦は、元來加賀藩領と幕府領との入會たりしものとす。次いで文化七年三月更に幕府領の民政に凡べて前田氏の法令を適用せしめ、又納租の法を改めて永定免金納となし、田租・小物成一切を擧げて加賀藩より年額五千二百十九兩を幕府に納入することゝし、剩餘あるときは之を藩の所得たらしめき。後慶應三年加賀藩は能登が邊海の要地にして、海防の設備嚴重ならざるべからざるを以て、幕府の寄田たる名義を廢し、純然たる加賀藩領たらしめんことを請ひしに、幕府は年額金一萬五千兩を上納すべき條件により、七月二日之を許容せり。されば明治元年三月政府が、改めて舊幕府領を土方氏領と共に前田氏に寄田となしたるは、理に於いて稍疑ふべしといへども、かの六十二ヶ村が名義上既に藩有たりしに拘らず、年々定額の金子を幕府に納入したるの實際に從ひたるものなるべし。
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