石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第一章 領主及び領土

天正十一年四月羽柴秀吉、柴田勝家近江の柳ヶ瀬に戰ふ。秀吉之に捷ち、直に越前を經て加賀に入り、尾山城に在りし佐久間盛政の殘黨を追ひ、その遺領中有川・河北二郡を利家に、江沼・能美二部を新たに越前北莊の城主となれる丹羽長秀に屬せしめ、而して大聖寺には溝口秀勝を、小松には村上義明を置きて、共に長秀の與力たらしめき。この時秀吉は、又利家の子利長石川郡の内松任四萬石を與へしに、利長はその前領越前府中を返還して松任城に移れり。十三年四月丹羽長秀歿し、その子長重家を襲ぎ、越前及び加賀の江沼・能美二部を除きて、若狹八萬石に封ぜられしも、その與力たりし溝口秀勝村上義明とは、尚大聖寺及び小松の舊領に在りき。この年閏八月近江の佐和山城主たりし堀秀政に、丹羽民の舊領を賜ひしを以て、秀政は越前北莊に移り、且つ秀勝と義明とを己の與力とせり。二人の領有する所亦丹羽氏の時に同じ。九月秀吉佐々成政の領越中礪波・射水・婦負三郡を奪ひて、之を前國利長に與へしかば、利長の前領松任四萬石は秀吉の直轄する所となり、利家の臣寺西治兵衞秀則をその地の代官として管理せしめたりき。十五年秀吉丹羽長重の若狹領を除き、松任四萬石を以て之に代ふ。これ今年長重が秀吉の征西の役に從ひし時、その從臣にして軍律を犯すものありしに因るといふ。同年秀吉佐々成政の領越中新川郡を收め、前田利家をして假に之を管せしめしが、文祿四年秋利家の領有に歸せり。是より先天正十八年、北莊の城主堀秀政は小田原の役に從ひて病歿し、子秀治嗣ぎしが、慶長二年に至りて越後の春日山城に移され、その與力溝口秀勝は新發田六萬石、村上義明は本庄九萬石に封ぜらる。
越州加州内知行方目録
 一、拾壹萬九百四拾九右五升餘        川  北  村
 一、貳萬五千六百參拾五石六斗四升      城 之 橋 東
 一、參萬參千四百五拾四石九斗八升      橋与城之橋間
 一、貳千百貳拾參石貳斗           西  方  内
 一、八千六百九拾壹石貳斗八升        加州[江沼郡之内 能美郡之内]
    以上拾八萬八百五拾石    自 分
 一、四萬四千石          江沼郡  溝口金右衞門(秀勝)
 一、六萬六千石          能美郡  村上次郎右衞門(義明)
    都合貳拾九萬八百石
 右分令扶助訖。全可領知者也。
    天正十三年閏八月十三日               秀   吉 在判
      羽柴左衞門(堀秀政)督どのへ
〔温故足徴〕
       ○

 於越前加賀兩國内、同左衞門(堀 秀政)督當知行分、合拾六萬石事相添目録別紙扶助之訖。全可領知。並村上周防守(義明)・溝口伯耆守(秀勝)兩人、爲與力先々相附者也。
    天正十八 十一月四日                朱   印(秀吉
      羽柴久太郎(堀秀治)どのへ
〔遺編類纂〕