射水市新湊博物館/高樹文庫「石黒信由関係資料」

石黒信由関係資料

1「高樹文庫」のあらまし

 高樹文庫の絵図は、信由のほか、信易、信之、信基、北本栗が作製しています。
 いずれも和算、西洋数学、天文暦学、測量術に秀でており、加賀藩の測量事業に活躍した人物です。
 
① 石黒信易
 信易は、信由の二男として、寛政元年(1789)に生まれました。名を藤助といいました。
 文化13年(1816)に射水郡縄張役となり、翌年には高木村肝煎を務めました。
 信由が加越能三州の測量を命じられ、家を空けることが多くなってからは、測量結果の整理など父の仕事を内部から支えました。
 信易自身も、射水郡縄張役として郡内の村々の新開地や田地割などの測量や、藩からの特命で新川郡内の新開地にも赴き、60ヶ所以上の測量を行いました。
 また、加越能三州の測量でも、白山下などは信易が測量しています。
 天保6年(1835)に病に冒されて公務を離れ、弘化3年(1846)に病没しました。
 
② 石黒信之
 信之は、文化8年(1811)に信易の長男として生まれ、名は祖父と同じ藤右衛門です。
 天保6年(1835)父信易が病に伏すことが多くなったため、祖父信由の名代を務め、祖父没後に射水郡新田裁許・絵図方御用などに任じられました。
 信之は、加賀国河北潟など新開地の測量や金沢町続地の測量などに従事しました。
 天保8年に加越能三州絵図の作製を命じられ、祖父以来の資料をもとに新しい村の情報を付加、修正して郡図・国図を提出しています。
 また、ロシアなどの諸外国の船が日本近海に出没したことから、嘉永3年(1850)に加越能の海岸絵図の作製を命じられ、往来、海岸線、沿岸の島々、海の深浅まで絵図に表し、藩の海岸巡見にも同行しました。
 嘉永3年に射水郡平十村列に任命されましたが、2年後に42歳で亡くなりました。
 
③ 石黒信基
 信基は、信之の長男で、天保7年(1836)に生まれました。名は父・曽祖父と同じ藤右衛門です。
 嘉永4年(1851)から父信之の代理を務め、信之没後に射水郡新田裁許・測量方御用を命じられました。
 信基の生涯を代表する事業は、慶応3年(1867)に行われた越前敦賀から琵琶湖への運河計画に伴う測量でした。加賀藩は、敦賀湊から加賀藩領であった海津(滋賀県)への物資輸送のため、敦賀琵琶湖間の運河の開削を計画しました。
 信基は、4歳年長の叔父北本栗とともに測量の責任者として測量隊に加わり、6つの道筋で道程測量と高低測量を行いました。この事業では、「直径・直高図」とよばれる敦賀から琵琶湖までの距離と、海面と湖面からの高低を一枚の絵図で立体的に読み取れる前例のない画期的な絵図を作製しました。
 また、曽祖父信由が藩に郡図・国絵図を提出してから40年が経過していたため、河川流路の変化や新しい村立てがあり、校正が必要になっていました。信基は、栗とともに慶応元年(1865)に郡図の校正図、明治2年(1869)に国絵図を作製しました。明治時代の富山・石川県の地図作製には、これらの絵図が利用されています。
 明治2年、34歳の若さで亡くなりました。
 
④ 北本栗
 栗は、信易の息子で、天保3年(1832)に信之の弟として生まれました。
 嘉永5年(1852)に居村の北本家の養子となりました。
 文久3年(1863)、郡奉行直支配・測量方・絵図方御用を命じられ、14代将軍家茂の上京に際しては、海路警備のために動員された加賀藩の軍艦発機丸に乗船しました。
 慶応3年(1867)、信基とともに敦賀琵琶湖間の運河計画の測量の責任者となり、射水郡新田裁許・測量方・絵図方御用などに任じられます。
 大政奉還後も戸長・区長・射水郡書記などを務め、地租改正の施行に尽力しました。明治12年(1879)には石川県会議員に当選し、地方行政でも活躍、同19年に没しました。