射水市新湊博物館/高樹文庫「石黒信由関係資料」

石黒信由関係資料

1「高樹文庫」のあらまし

 石黒信由は、名を藤右衛門といいます。宝暦10年(1760)、射水郡高木村に生まれました。父は3歳の時に亡くなったため、幼少の頃より祖父母のもとで育てられました。
 天明4年(1784)、亡くなった祖父の跡を継ぎ、高木村肝煎になりました。
 信由は、幼いころから学問に秀でていました。天明2年に富山藩士の中田高寛の門人となって和算を学び、寛政8年(1796)に免許を得て第六伝となりました。高寛は、江戸で学び、関流和算の正統を越中に伝えた人物です。
 また、西村太冲から天文暦学や西洋数学を学び、測量術も意欲的に習得します。
 享和3年(1803)、伊能忠敬が全国測量の道程で加賀・能登・越中に訪れました。信由は、忠敬一行に同行し、彎窠羅鍼(わんからしん)などの測量器具に大きな感銘を受けました。
 信由の学問は、新田開発や絵図の作製などに応用される実学として展開していきます。寛政7年(1795)、射水郡縄張役を命じられ、以後は村々の検地や新田開発など、さまざまな測量事業で成果をあげます。
 文化5年(1808)、加賀藩は加越能三州の絵図作製を企図し、郡ごとに絵図を提出させたところ、信由の提出した射水郡の絵図の正確さと出来栄えが群を抜いていました。藩は、信由の射水郡図を大変評価し、文政2年(1819)、信由に諸郡内の道筋の測量御用を命じます。信由60歳の時でした。信由は、約3年半をかけて加越能全ての測量を行い、文政8年に加越能全域の正確な絵図を完成させました。
 こうした事績が認められ、信由は、天保6年(1835)に射水郡年寄列(十村と同等職)に任じられます。
 翌年77歳で病没しましたが、測量事業は子孫や多くの弟子に引き継がれます。加賀藩の科学技術の発展の礎となった人物の一人といえます。