高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ

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作品解説

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佐々成政書状


佐々成政書状(さっさなりまさしょじょう)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 
 天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去すると、織田信長はただちに神保長住を飛騨ルートから富山城に送り込んだ。長住は神保長職の嫡子だが、先の神保氏分裂の折、父と対立し反上杉となり、京都に出た。信長は長住を食客としていたが、神保氏の婦負・射水郡支配権を回復させる名目で、佐々長龝を副えて送り込んだ。さらに美濃衆・斎藤新五を派遣し、謙信の死後動揺していた上杉勢を破り、富山南部の太田保土豪を味方につけ、長住を富山城に入れていた。
 
 一方、加賀ルートからは、信長家来で越前府中三人衆であった佐々成政(1539~88)を送り込んだ。成政は天正8年(1580)8月に越中派遣を伝えられ、翌9年(1581)早々に越中に封ぜられた。当初は守山城に入り、神保庶流で旧同城主であった神保氏張を与力とし、支配の一端を担わせた。同年、当時安養寺村にあった勝興寺は、成政についた木舟城主・石黒左近将監道之に急襲され、伽藍が灰燼に帰してしまう。その後の12年(1584)、元々、親一向一揆派であった氏張による一揆衆登用の献策を受けた成政は、この書状により勝興寺の還住を許した。氏張が古国府一円を寺に寄進したことにより、勝興寺は現在の場所へ移ったのである。

(久保尚文)


【参考文献】『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009)


 
 勝興寺還住之事、しょうこうじげんじゅうのこと、
 就懇望、任其意候、こんもうにつき、そのいにまかせ候、
 然者坊地者守山しからばぼうちはもりやま
 麓ニ申付候、委細者ふもとにもうしつけ候、いさいは
 神保安藝守可被申候、じんぼあきのかみもうさるべく候、
 恐々謹言、きょうきょうきんげん、
  (天正十二年)
 十一月十四日成政(花押)
  勝興寺下
    坊主中

(佐伯安一)