新選組を支援した多摩の豪農
調布玉川絵図
小野路村(現・東京都町田市小野路)
小野路宿は鎌倉時代に開かれた山あいの宿で、江戸時代には六軒の旅籠があった。この図は幕末のもので小野路から府中へ抜ける道は徳川家康の御霊を久能山から日光へ移した時の御尊櫃御成道(ごそんぴつおなりみち)である。黒川~坂濱へ抜ける道は、甲州街道布田宿につながる布田道(ふだみち)である。江戸に行くには近道のため、近藤勇・土方歳三・沖田総司も利用した。沖田は文久二年 (1862) 七月に麻疹にかかり、布田宿へ送られている。現在は廃道になっていて、自動車は通行できないが、徒歩では通行可能。真光寺から栗木へ抜ける道が現在布田道と言われているが、これは誤りである。小野路では炭焼きが盛んで、この布田道を使って馬の背に乗せて炭を運んだ。炭問屋の布田宿の原惣兵衛は多摩川を使って舟で炭を羽田へ運び、大きな船に積み替えて江戸に運んだ。
小野路村は文政一〇年 (1827) に小野路村外(ほか)34ケ村組合村の親村になり寄場(よせば)となった。武蔵国多摩郡11ヶ村、同国都築郡24ヶ村からなる。太い赤線が主要道路で、市ヶ尾村・下谷本村を通る道が青山道(大山街道)現国道246号線。小野路を通る道が、甲州道中府中宿へ抜ける府中道である。小野路組合村は、鶴見川に沿った道(神奈川道)を含んだ組合村である。この図は明治二年に寺社を記したもの。
「ジョン万次郎の撮った旗本山口直邦の写真」 小島 政孝(小島資料館館長)
小島家
小島家母屋(中央)は、関東取締組合村の寄場(よせば)名主住宅として天保一三年 (1842) に造られた。中央に玄関があり、入って左側に関東取締出役が使用した上段の間(二間)がある。小島家の敷地は三反(九百坪)あり、天然理心流三代近藤周助・勇は師範として来訪し、庭で子弟に剣術を指南した。のちに塾頭(じゅくとう)の沖田総司ほか土方歳三も訪れている。近藤勇はドクロの稽古着を着て指南した。母屋左側の書籍蔵は明治に造られ関東大震災で倒壊した。この銅版画は母屋落成から43年後のもので、後に改造されて内部が五層になった。母屋の正面の大きな松は昭和五十年に枯れた。
天保年間の母屋は明治に養蚕を行なうために棟を上げ、五層になった。中二階の上の二階部分に換気と照明のため窓がつけられている。松の前に三畳の書斎がある。座っているのは、鹿之助の孫・孝(こう)である。明治三六年正月の写真で子供が4人晴れ着姿で写っている。梯子の下、左よりの女の子は孝の妹清香、昭和四三年一一月に小島資料館開館祝いで小島鹿之助の像を除幕した時「チョンマゲのおじいちゃんにそっくりだ」と話した。現在庭園内にある小島鹿之助と近藤勇の銅像製作者は、故・木村恵保である。
小島家母屋の建築は、天保一二年夏より約一ヶ年かかってつくられた。そのとき、土地の大工に金一〇両と米一〇俵、左官に三両二分の建築費を要したといい、屋根はとくに会津から屋根屋を招いて葺かせたという。母屋は、間口一二間(21.6メートル)、奥行七間(12.6メートル)、屋根の最高部、約六間(11メートル)であった。 母屋の構造は、基本的には一般の農家と異るところがなく、いわゆる扠首構造であるか、屋根裏は以前養蚕に使用した関係から、中二階、三階と三段に仕切られている。最下段の床は板張りであるが、他はすべて箕子板張りである。そして大黒柱のみ中二階の梁下端まで延びているか、中二階、二階の梁の支持は一階の梁上端から建てられた柱によって支持され、最上階のみ扠首にわたした繋梁によって支えられている。 屋根は茅葺の寄棟造であるが、東の妻側には流れをゆるくして造られた開口部があるが、総体的に暗い。明治一八年の銅版画によると、母屋の玄関上部には千鳥破風がついていたことがうかがわれる。 小島家では昔から火災を恐れ、「火」にたいしては特別に注意をはらっていた。冬になると、屋根に長いはしごをかけるのが年中行事だった。火災は、大気の乾燥した冬に多く、近所で火災があったとき屋根に飛んできた火に水をかけるためである。庭の隅に水をいっばい入れた大釜を置き、非常の際の防火用水にした。『小島日記』によると、はしごは五月に外している。おそらく、前に二本、裏に二本を掛けたと思われる。また、明治期に作成した柱に掛けた木札には、「龍土水ポンプ時々注意厳実又湿気腐敗等ヲ心付くべき事」「取灰最も注意すべき事」そして、太い字で、「火之元大切第一ニ注意すべき事」と記されている。 このような心がけと平常の用意があったため、幸いにも小島家では火災を出さず、代々の史料が無事に伝わって現在にいたっている。 小島家母屋は昭和三九年十一月に改築し、現在のようになった。
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佐藤家
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