多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

小島家の日記『梧山堂雑書』

小島家母屋について

小島家母屋の建設は、天保一二年夏より約一ヶ年かかってつくられた。そのとき、土地の大工に金一〇両と米一〇俵、左官に三両二分の建築費を要したといい、屋根はとくに会津から屋根屋を招いて葺かせたという. 母屋は、間口一二間(二一・六メートル)、奥行七間(一二・六メートル)、屋根の最高部、約六間(一一メートル)であった。
向って右側に台所をとり、左に手前からオモテ、茶の間二部屋、それに式台のある玄関、オヘヤ二部屋、さらに、上段の間(幕府の役人か使用)、中の間と奥の間、茶室の各部屋が整然と並んでいる。そして座敷周り三方には幅三尺の縁が回り、表座敷の片隅には、もと客用に使用された「浴室」が設けられてあった。
また台所の右側には男部屋(もと臼ひき場)この男部屋の右に昔は別棟で馬小屋があった。風呂場(もと物置)、カッテ(もと男部屋)、カマド(もと風呂場)があって裏手にはミソベヤ(もとカッテ)がある。
表座敷と茶の間との間仕切は昭和初年ころ仕切られ、往時は二二畳という広間で組合村の名主の会議室として使われた。
母屋の構造は、基本的には一般の農家と異るところがなく、いわゆる扠首構造であるか、屋根裏は以前養蚕に使用した関係から、中二階、三階と三段に仕切られている。最下段の床は板張りであるが、他はすべて箕子板張りである。そして大黒柱のみ中二階の梁下端まで延びているか、中二階、二階の梁の支持は一階の梁上端から建てられた柱によって支持され、最上階のみ扠首にわたした繋梁によって支えられている。
屋根は茅葺の寄棟造であるが、東の妻側には流れをゆるくして造られた開口部があるが、総体的に暗い。明治一八年の銅版画によると、母屋の玄関上部には千鳥破風がついていたことがうかがわれる。
小島家では昔から火災を恐れ、「火」にたいしては特別に注意をはらっていました。
冬になると、屋根に長いはしごをかけるのが年中行事でした。火災は、大気の乾燥した冬に多く、近所で火災があったとき屋根に水をかけるためです。庭のすみに水をいっばい入れた大釜を置き、非常の際の防火用水にしたそうです。このような心がけと平常の用意があったため、幸いにも小島家では火災を出さず、先代からの史料が無事に伝わって現在にいたっています。