多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

小島家の日記『梧山堂雑書』

文久3年の軍事的緊張と村での対応

 5月になると、緊張は一層高まっていく。
5月7日、小野路村の相給の地頭、松平若狭守の屋敷より「異人一条愈々大変相成り候」とのお達しの書付けが来た。鹿之助の『日記』でも、「英夷一条いよいよ迫り、今夜にも兵端開くべき哉につき、心付け候与の御沙汰書」があったと書いている。
 また、神保氏からは「人足八拾人馬拾五疋遣わし候様」との飛脚が届き、相給の旗本・岡部氏からは「人足四拾人差し出し候由」、駒井氏からは「人足三拾人差し出し候様御達し」が届いた(『雑書』5月7日)。江戸の緊張は即刻村方に伝わり、それは人足や上納金といった形で表れてくる。
 また、野津田村の石阪伴助が、4日に江戸市中に触れ出された御触書を持参してくれた。それは、芝から海岸へかけての町は、老若病人等は近村の身寄りに疎開し、主人や壮健なものは居残るようにという奉行所の御達しであった(『雑書』5月7日)。『異聞録』に記録されているこの町触れの内容は次のとおりである。
 
亥五月四日九時町触の写
此度横浜沖碇泊の英国軍艦、昨今の模様には品により兵端を開くべくも計り難く候間、品川拾八ヶ寺門前より芝辺海岸の分、老若病人の類い、一時騒ぎ立ざる様、兼て触れおき候えども、近在身寄り等に立退き申すべし、尤も主人並びに壮年下仕い等は、立退義相成らず候間、火元等取締り筋精々心付け申すべし、右の趣、海岸付き町々へ触れ知らすべきもの也
 五月
右の通り町御奉行所より御聞きつぎの趣、難渋之無き様、早々相触れらるもの也
 亥五月           町年寄
 
「今夜にも兵端を開くべくも計り難く」という、お上からの御達しであるから、村の人々も極度の緊張状態に陥ったに違いない。こうしていよいよ5月10日を迎えた。『日記』も『雑書』も、この日の記事は緊張の極に達したかに見える。
 鹿之助は「御屋敷より金之助・幸助帰ル。横山いよいよ切迫の由」「御相給松平様よりはいよいよ立退きの由御廻状来ル」(『日記』)と記しているし、角左衛門は地頭所からの情報として、「水戸様御同勢今日より御操り出し相成り候由」と出陣かと思わせる動きを記している。また、松平若狭守の御用役からの情報として、「御親類堀様並びに当屋敷御双方奥方様、代々木へ一先ず御立除きに相成り候間、名主共の内三人程出府いたし候様申し越され候」と記している。
 また、一橋慶喜の動向について、「一橋様八日川崎宿御旅館に相成り候処、俄に御摸様替えにて御乗り切りにて御城入りに御成り候由」との情報に注目している(『雑書』)。これがどのような意味を持つのかは日記に記述はないのだが、京から江戸へ向かった一橋慶喜が、この日川崎宿へ宿泊する予定だったところをにわかに変更して、一気に「乗り切りにて」江戸城へ入ったという緊迫した様子をとらえているのである。慶喜のこの行動にどのような事情があったのか、後になった取り沙汰されることになる。