多摩デジタル新選組資料館 新選組関連資料

小島家の日記『梧山堂雑書』

文久3年の軍事的緊張と村での対応 

 4月に入ると、将軍警固のために上京した浪士組が分裂して清川八郎らが江戸へ帰ってきたという情報が入ってきた。4月4日、角左衛門が日野宿名主佐藤彦五郎を訪ねたところ、石田為吉が居合せ、浪士組の話を聞いた。近藤門人ら約20名は「将軍様御還御の節御供帰府いたし度」との理由を申し上げて認められ、京都に留め置かれることになったとの話であった。一方、清川らと共に江戸へ帰ってきた者の中に、日野宿出身の扇木屋兵助や吾妻屋の忰など3人がいた。いずれも近藤の門人であったにもかかわらず帰ってきたという。彦五郎は帰ってきた彼らのことを、「彼等如き臆病ものハ取ニ足らざる故」その随に任せればいいのだ、といった口ぶりでずいぶん批判的であった(宮地正人「近藤勇宛新出書状草案について」『日野宿叢書』所収 による)。またこの時角左衛門は、「清川八郎ら重立ち、市中町人共の物持ちへ軍用金無心申し入れ、尤も直段懸合いにはこれ無く、町名主又は与力衆案内にて押し歩行(あるき)、凡十万両程出来候由」(『雑書』4月9日)という話を彦五郎から聞いた。
 江戸では浪人の乱暴や押し借りが増えていたようで、『雑書』4月19日には、野津田村伴助から入手した幕府の沙汰書の情報を書いている。それによれば、江戸市中で押し借りをして歩いた浪人ら25人が召捕りになり、昨日の評定で大名方へお預けになったとのことである。これについては『異聞録』にも、「浪士村上俊五郎他二十四名評定所裁許」が書き写されている。さらに23日には、中鉄村名主の藤右衛門宅へ助郷の件で出かけていた鹿之助が聞いてきた話、浪人首が江戸の両国橋に晒されているという、まことに不穏な時勢を示すニュースが『雑書』に書かれている。
「浪人首両国橋にて柄(晒カ)し候由、全く吉原遊女召し連れ歩行候故、仲間にて右の通り打首致し候由、藤右衛門殿自心(身カ)見物いたし候由、申し聞かれ候」(『雑書』4月23日)