多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

小島家の日記『梧山堂雑書』

梧山堂雑書 解題

小島 政孝(小島資料館館長)
 
 『梧山堂雑書』の著者は、武蔵国多摩郡小野路村(現東京都町田市小野路町)小島家十九代の小島角左衛門(政則)である。角左衛門は、享和二年(一八〇二)に政敏の長男として生まれた。幼名は、増吉、角左衛門と称し、諱政則、梧山・梧荘は、その号である。父の政敏は、文政十年に隠居し、代わって角左衛門は、二十六歳で名主を継いだ。角左衛門の妻は相模国愛甲郡山際村(現神奈川県厚木市山際)名主梅沢喜右衛門の娘きくである。二歳年下で文化元年(一八〇四)の生まれである。世話好きで角左衛門のよき伴侶であったが、明治十二年に七十六歳で没した。
 文政十二年の改革で小野路村は、小野路村外三十四ヶ村組合村の寄場となり、角左衛門は寄場名主に就任した。その後の天保の飢饉は、小野路村でも多くの潰れ百姓を生んだ。角左衛門はこれを憂い、自分の田畑を割いて分かち、子女を選んで娶らせ、三十戸の家を再興させた。地頭(旗本)の山口氏は、これを聞いて角左衛門に天保十二年二月に苗字帯刀を許した。天保飢饉の復興にもなった小島家母屋の建設事業は、寄場名主の役宅として天保十三年十月に落成した。天保十四年正月に角左衛門の長男鹿之助は、地頭の山口采女(近江守、直邦、二千石)より父同様の格式をもって十四歳で名主を命ぜられた。そのため、角左衛門は、後見名主を務めたと思われる。
 小野路村名主橋本家の当主善右衛門(政元)が嘉永四年八月一日に二十七歳で亡くなると、長男の道助が七歳で名主を継いだ。このとき鹿之助は道助の後見名主となった。善右衛門の妻まつは、角左衛門の長女である。角左衛門がいつ名主を辞めたか不明であるが、『雑書』を読んでいると、助郷歎願や、村芝居一件などの事件に関して、名主役現役のように記している。
 角左衛門は、書を旗本石川梧堂(兵庫総朋、四千石)から学び、「梧」の一字をもらって自分の号とした。石川は、嘉永五年一月七日に七十五歳で没したが、角左衛門がいつ入門して書を学んだかは不明である。また、允中流の挿花を多摩郡関戸村の相沢伴主(嗜山樓)から学んでおり、又弟子もいた。挿花の名は、梧山楼和平を名乗っている。入門時期は、文政十三年一月に「允中流瓶花大意」を相沢から受けていることから、それ以前の入門と思われる。
 天保六年十一月に近藤周平から天然理心流剣術切紙、目録を授かっている。天保七年の『小島日記』には、剣術稽古の記事が二十四回あり、八年は四回、九年は二回、十年は記載がない。また、角左衛門は嘉永三年ころから狂歌を作っており、その多くは『雑書』に記されている。嘉永三年の『伊勢参宮道中記』に四十一首の狂歌が記されていることから、角左衛門は、伊勢参りのときに狂歌を作る何らかの示唆を受けたと考えられる。狂歌は、四百三十数首に及び、その多くは『雑書』に記されているが、角左衛門が狂歌を一冊にまとめたものはない。『小野路艸』は、小島日記研究会会員の飯田俊郎氏が角左衛門の狂歌を解説したものであるが、「政則(角左衛門)の狂歌歴は嘉永三年以前かなりの年数を積んだものと推察される。しかし、その師とすべき特定の人があったかどうかは定かではない。」と述べておられる。
 角左衛門は、天保七年(一八三六)から、『小島日記』を付け始めたが、嘉永三年(一八五〇)正月に伊勢参りに行くため、長男鹿之助に日記の執筆を任せた。『日記』は、以後、守政、孝と歴代小島家当主四代にわたって書きつがれ、大正十年をもって終わっている。八十六年間の記録で、八十八冊が小島資料館に保存されている。天保七年と八年は、写しが残されている。
 角左衛門は、伊勢参りから帰宅してからは、『雑書』という別の日記を付け始め、慶応三年(一八六七)五月二日まで、十七年四ヶ月間続いている。したがって、この期間は小島家では、角左衛門・鹿之助親子で日記を付けていた。しかし、同じ家の日記でありながら、親子で記載の内容が異なるものが多い。鹿之助の日記は、記載が簡略であるが、角左衛門の雑書は詳細に記しているので事件の経緯などが分かりやすい。鹿之助は、近藤勇や土方歳三と親しかったので、『雑書』には新選組に関する情報も記されている。鹿之助は、寄場名主として多忙のため、出張なども多く、鹿之助の留守に起きた事などもよく書き留めている。また、角左衛門は、仲人を多くしたので、縁談の経過なども詳しく記している。『雑書』が慶応三年五月二日で終わった理由は、五月五日に脳卒中で倒れ、自宅で急死したことによる。享年六十六であった。
『日記』は、横帳形式であるが、『雑書』は、縦帳形式である。『日記』は、一年一冊であるが、『雑書』は、年によって一年一冊と二冊と三冊の三通りある。『雑書』の総数は、三十四冊である。『梧山堂雑書』文久三年上は、縦二二・七センチ、横一六・三センチである。
 なお、最近まで、『聴書』と読んできたが、『慶応二年上』には、明らかに崩し字に『雑書』とあった。会員の高場康禎氏が、もしかすると、今まで『聴書』と呼んでいたが、これも『雑書』ではないかと言われ、会員全員で崩し字を検討した結果、『雑書』とした。表題は、『嘉三庚戌雑書』のように年号を入れたものであるが、小島日記研究会では、書名を『梧山堂雑書』と表記した。
 
 『小野路艸』は、小島資料館から、平成八年に飯田俊郎著で出版された。小島角左衛門の狂歌ならびに解説と、嘉永三年の『伊勢参宮道中記』が収録されている。また、巻末には、孫の守政の書いた「王父梧荘君行述」と、小島政則年譜があり、小島角左衛門を知るための参考になる