多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

小島家の日記『梧山堂雑書』

文久3年の軍事的緊張と村での対応

重 政 文 三 郎(小島日記研究会会長)
 私たちの解読した小島日記『雑書』の文久3年がいよいよ刊行された。それのみでなく今回はその内容、つまり古文書である日記原本と解読文とがインターネットを通じてデジタル公開されるという幸運に恵まれた。そこで、小島鹿之助の書いた小島日記(以下『日記』という)と父の角左衛門の書いた『梧山堂雑書』(以下『雑書』という)から、とくに江戸と京都の情報について日記がどのように取り上げているかについて見ておきたい。
 まずはじめに、この年文久3年、英国軍艦の横浜入港による生麦事件償金支払い要求があり、横浜と江戸市中に極度の軍事的緊張をもたらしたこと、そのことの情報がどのように村に伝わってくるかを跡付けていきたい。
 
地頭・山口直邦の昇進
文久3年(1863)は、小野路村の領主(地頭)山口直邦がお役替えで新たに騎兵頭に昇進し、山口近江守となったというニュースに始まる。この異動は昨年の年末も押し詰まって12月27日のことであった。29日には村方からも小島角左衛門自身が野津田村名主河井三左衛門と共に江戸の御屋敷へ伺候し、今年の元旦は江戸四ツ谷の旅籠で正月を迎えたのであった。殿様の昇進祝いであるから当然村方からのお祝い金も持参した。日記には小野路から17両、野津田から13両の金子を差上げたことが記されている(『雑書』)。
正月2日に甲州街道を通って小野路村へ帰着した角左衛門は、翌3日にさっそく組頭・百姓代など村役人たちを呼び集め、殿様の昇進のことを報告したところ、みんな大喜びであった、と『雑書』に書いている。
 昨年・文久2年、いわゆる文久改革の一環としての軍制改革で、新たに歩兵・騎兵・砲兵の三兵が編成された。小野路村地頭・山口氏は、幕府の新しい改革に乗って登場しているかに見え、村方でも朗報として迎えられたようである。
しかし、文久改革が、条約勅許をめぐる朝廷と幕府の軋轢が激化してきた政治情勢の下で、幕府が一橋慶喜を将軍後見職に任命し、会津藩主松平容保を京都守護職にあて、朝廷との融和を図るものであったのであり、一方、攘夷政策のために対外軍備強化に備えるものであったことに注目しておかなければならない。
小野路村にとって、このような日本全体を揺るがす新たな政治的緊張があったことを背景として受け止めなければならない情報の第一番目が、山口氏のお役替えの情報だったのである。こうして開けた文久3年の日記には、江戸や京都から、緊張した情報が次々と入ってくることになる。
 
将軍・家茂の上洛
 2月になると、3代将軍以来例のなかった将軍家茂の上洛にあたって幕府が募集した浪士隊が、いよいよ出発する。浪士隊には、近藤勇や土方歳三など、小野路村へ剣術指南に来ていた剣客たちも参加していた。2月5日には、鹿之助は江戸へ出かけて、近藤らの出発を励ましている。13日には、その日「卯の上刻将軍家茂が出発した」との情報が即日届いた。上小山田村の名主善兵衛が、登戸から帰ってきて伝えたものである。将軍の上洛は村方に無関係なのではなく、さっそく17日、寄場組合村の取締出役方から御沙汰があり、また地頭所からも御達しがあった。取締筋の注意事項を一つひとつ書き取り、村方役人立会いの上で、小前百姓にも請け印を押させた。
 
英国軍艦渡来ニ付備方
 3月に入ると、江戸方面の情報はにわかに騒がしくなった。5日、下男八蔵が東海道方面鎌倉郡の中田村(現横浜市泉区)名主・小山氏から手紙をもって帰ってきた。「上方筋に変事が出来したのだろうか、早駕篭が頻繁に通行している」(『日記』)という情報で、街道筋の騒然とした様子が伝わってきた。
次の日、6日の『日記』は「御府内高輪芝辺取払之趣風聞」があり「心配」なことだと不安を隠さない。角左衛門の日記『雑書』3月7日では次のように書いている。
「一 御城最寄芝辺一同戦の場所に相成り、六日七日両日の内引き払い候様御触出しこれ有り、右場所柄のもの一同恐縮大変の由、咄しにも出来申さざる由風聞」
 英国軍艦が横浜へ来たのである。そのため、江戸城から高輪、芝のあたりにかけて戦場になるかもしれないので、急いで引払うよう触れが出た。江戸の町は大騒動になり、戦争になるかもしれないという事態となった。武士も町人もこのままではいられない。
 小島家に残っているこの時期3月上旬の幕府の沙汰書・達書・触書として、次のように多数があり、『異聞録』に筆写されている。
 
3月5日 英国軍艦渡来ニ付備方(触達)
亥3月  異国艦船横浜碇泊中市中取締(触達)
亥2月19日 英国軍艦差出候書簡
3月4日 異船渡来ニ付横浜川崎間警衛ニ付(井伊家へ)(申渡書)
3月5日 英国軍艦渡来ニ付備方(牧野越中)(申渡書)
亥3月  異国艦船横浜碇泊ニ付江戸市中女子并老若病者在方立退(触達)
     江戸市中女子共立退関所判鑑相渡ニ付(触達)
亥3月  非常之節家族在所へ差遣ニ付(申渡書)
亥3月  家族近国知行所江差遣之節関所自分判断ニ而通行ニ付(申渡書)
 
 小島家にとっては3月7日の段階ではまだ風聞に過ぎなかったが、この日、地頭所から急飛脚が到着して、殿様の直々の手紙が届いたため、にわかに現実の問題となった。受け取った鹿之助は直ちに野津田村名主の三左衛門らと共に、明日の未明には出立というあわただしい事態となった。旗本にとって、一つは武士として戦争に備えて準備に入らなくてはならないし、他方で、その家族を避難させることも考えなくてはならない。そのために、村方の名主たちを呼び集めたのである。
 すでに代官・江川太郎左衛門様の奥方は昨日、田名村の半兵衛方へ御立退きになったとの情報も入ってきた。
 
殿様奥様の疎開受入れ
 9日、鹿之助が帰村すると、10日には小野路村の組頭と百姓代など村方役人を呼び集めて寄合、「非常之節御奥様其外引取談いたす」(『日記』)。そして、鹿之助と入れ替わりに今度は角左衛門が出府することになった。角左衛門は『雑書』3月13日
「江戸表御武家方町人等に至る迄厳重の御触れ達しこれ有り、銘々御旗本様方御知行所へ御引き取り、御蔵前取り又は遠国御知行所これ有るの面々は、御親類様方へ御頼み相成り候事故、同日出府」
と書いて出かけて行った。老人の出府は殿様の家族を引き取ることがいちばんの用件であったと思われる。帰村したのは16日であった。鹿之助のその日の日記には次のようにある。
「殿様御像を写候鏡被下、床之間江きじの箱江入置、御旗本様方御老若御知行江御引取不苦旨御触書写老人持参、江戸之騒動実ニ筆紙ニ難尽」
この記述から、先にあげた『異聞録』にある触書類のいくつかは、角左衛門の出府によってもたらされたものであることが分かる。角左衛門の帰村後直ちに行動は起こされた。奥様引取りのために、その住居として、野津田村の石阪家の隠居のための家を買い取り、小野路村へ移築しようということになり、このあと御殿の建築が進んでいく。(このことについては、小島日記研究会編『小島日記物語』のうち淀川好幸「奥様御殿」に詳しく紹介されている)。
 また、角左衛門が山口氏へ伺候して奥様引取りの相談などしたときに、殿様から直々にお土産を貰ったことがこれで分かる。つまり「殿様御像を写候鏡」をくださったというのであり、「鏡」というのはガラス板に写された写真に他ならない。小島家ではこの写真を木地の箱に入れて床に間に飾ったというのであるが、現在も小島家には伝存している。実はこの写真は、あのジョン万次郎が江戸・芝新銭座の江川太郎左衛門の屋敷で撮影したものであることが最近分かった。→画像を見る。山口直邦がかねて講武所の砲術指南役であり今年騎兵頭に昇進したことを考えれば、江川家との交流が想像されるところである。
 脇道にそれたが、角左衛門が江戸へ行って、英国軍艦入港と戦争の危機をめぐる町の様子を見聞したところは、「江戸の騒動実に筆紙に尽し難し」(『日記』)という状況であった。
 
浪士隊の帰府
 4月に入ると、将軍警固のために上京した浪士組が分裂して清川八郎らが江戸へ帰ってきたという情報が入ってきた。4月4日、角左衛門が日野宿名主佐藤彦五郎を訪ねたところ、石田為吉が居合せ、浪士組の話を聞いた。近藤門人ら約20名は「将軍様御還御の節御供帰府いたし度」との理由を申し上げて認められ、京都に留め置かれることになったとの話であった。一方、清川らと共に江戸へ帰ってきた者の中に、日野宿出身の扇木屋兵助や吾妻屋の忰など3人がいた。いずれも近藤の門人であったにもかかわらず帰ってきたという。彦五郎は帰ってきた彼らのことを、「彼等如き臆病ものハ取ニ足らざる故」その随に任せればいいのだ、といった口ぶりでずいぶん批判的であった(宮地正人「近藤勇宛新出書状草案について」『日野宿叢書』所収 による)。またこの時角左衛門は、「清川八郎ら重立ち、市中町人共の物持ちへ軍用金無心申し入れ、尤も直段懸合いにはこれ無く、町名主又は与力衆案内にて押し歩行(あるき)、凡十万両程出来候由」(『雑書』4月9日)という話を彦五郎から聞いた。
 江戸では浪人の乱暴や押し借りが増えていたようで、『雑書』4月19日には、野津田村伴助から入手した幕府の沙汰書の情報を書いている。それによれば、江戸市中で押し借りをして歩いた浪人ら25人が召捕りになり、昨日の評定で大名方へお預けになったとのことである。これについては『異聞録』にも、「浪士村上俊五郎他二十四名評定所裁許」が書き写されている。さらに23日には、中鉄村名主の藤右衛門宅へ助郷の件で出かけていた鹿之助が聞いてきた話、浪人首が江戸の両国橋に晒されているという、まことに不穏な時勢を示すニュースが『雑書』に書かれている。
「浪人首両国橋にて柄(晒カ)し候由、全く吉原遊女召し連れ歩行候故、仲間にて右の通り打首致し候由、藤右衛門殿自心(身カ)見物いたし候由、申し聞かれ候」(『雑書』4月23日)
 
幕府と英国との交渉
 さらに続けて、「異人応接の義」として、昨日横浜で英国側から幕府に対して生麦事件の賠償金支払いの強硬な交渉があったが、幕府方は英国の要求に対して大阪へ廻航して交渉するようにと突っぱねた。幕府の態度は「未だ否やの訳けに候」と角左衛門は記している。この背景には、京都において朝廷から幕府方に対する「攘夷」の即時実行の要求がますます強まり、4月20日将軍家茂はとうとう「5月10日をもって攘夷期限とする」と回答するところまで追い込まれていたことがある。英国側はそれに対して、横浜港の軍艦の圧力のもとで、償金支払いを迫っているのである。
 幕府と英国の交渉は膠着状態となっており、英国の軍事的圧力は益々強まっていることが、角左衛門にも感じ取られた。
 
今夜にも兵端を開く
 5月になると、緊張は一層高まっていく。
5月7日、小野路村の相給の地頭、松平若狭守の屋敷より「異人一条愈々大変相成り候」とのお達しの書付けが来た。鹿之助の『日記』でも、「英夷一条いよいよ迫り、今夜にも兵端開くべき哉につき、心付け候与の御沙汰書」があったと書いている。
 また、神保氏からは「人足八拾人馬拾五疋遣わし候様」との飛脚が届き、相給の旗本・岡部氏からは「人足四拾人差し出し候由」、駒井氏からは「人足三拾人差し出し候様御達し」が届いた(『雑書』5月7日)。江戸の緊張は即刻村方に伝わり、それは人足や上納金といった形で表れてくる。
 また、野津田村の石阪伴助が、4日に江戸市中に触れ出された御触書を持参してくれた。それは、芝から海岸へかけての町は、老若病人等は近村の身寄りに疎開し、主人や壮健なものは居残るようにという奉行所の御達しであった(『雑書』5月7日)。『異聞録』に記録されているこの町触れの内容は次のとおりである。
 
亥五月四日九時町触の写
此度横浜沖碇泊の英国軍艦、昨今の模様には品により兵端を開くべくも計り難く候間、品川拾八ヶ寺門前より芝辺海岸の分、老若病人の類い、一時騒ぎ立ざる様、兼て触れおき候えども、近在身寄り等に立退き申すべし、尤も主人並びに壮年下仕い等は、立退義相成らず候間、火元等取締り筋精々心付け申すべし、右の趣、海岸付き町々へ触れ知らすべきもの也
 五月
右の通り町御奉行所より御聞きつぎの趣、難渋之無き様、早々相触れらるもの也
 亥五月           町年寄
 
「今夜にも兵端を開くべくも計り難く」という、お上からの御達しであるから、村の人々も極度の緊張状態に陥ったに違いない。こうしていよいよ5月10日を迎えた。『日記』も『雑書』も、この日の記事は緊張の極に達したかに見える。
 鹿之助は「御屋敷より金之助・幸助帰ル。横山いよいよ切迫の由」「御相給松平様よりはいよいよ立退きの由御廻状来ル」(『日記』)と記しているし、角左衛門は地頭所からの情報として、「水戸様御同勢今日より御操り出し相成り候由」と出陣かと思わせる動きを記している。また、松平若狭守の御用役からの情報として、「御親類堀様並びに当屋敷御双方奥方様、代々木へ一先ず御立除きに相成り候間、名主共の内三人程出府いたし候様申し越され候」と記している。
 また、一橋慶喜の動向について、「一橋様八日川崎宿御旅館に相成り候処、俄に御摸様替えにて御乗り切りにて御城入りに御成り候由」との情報に注目している(『雑書』)。これがどのような意味を持つのかは日記に記述はないのだが、京から江戸へ向かった一橋慶喜が、この日川崎宿へ宿泊する予定だったところをにわかに変更して、一気に「乗り切りにて」江戸城へ入ったという緊迫した様子をとらえているのである。慶喜のこの行動にどのような事情があったのか、後になった取り沙汰されることになる。
 
英夷へ十九万ドル、一笑の至り
 こうして攘夷期限の日を過ごしたのであるが、この日長州では関門海峡を通行するアメリカ商船を攘夷の実行と称して砲撃するという挙に出た。しかしこの情報はまだ小野路村には届いていない。
 12日になって、小野路村から出て横浜で商売をはじめている忠兵衛の聟が、横浜から帰ってきてもたらしたビッグニュースが飛び込んできた。
「交易の義、英夷へ十九万ドル御遣しにて講和に相成り候、一笑の至りと存じ奉り候」(『日記』)
 生麦事件の賠償金を支払うについては、朝廷と幕府の確執あるところであり、幕府は攘夷の実行5月10日と約束しているという立場もあって、償金支払いは幕閣の中でも意見が対立していた。ところが、5月9日、攘夷期限ぎりぎりになって、幕府は突然イギリスに対して44万ドル(11万ポンド)の賠償金を支払った。これにより、3月以来の緊張状態は一気に弛緩したかに見えた。鹿之助がこのことを評して「一笑の至り」と断じたのは、鹿之助に攘夷実行への幕府の決断に期待があったのであろうか、その期待が裏切られた時の失笑なのであろうか。
 ともかく、数か月間続いた戦争への緊張感は、この日いっきに弛緩した。角左衛門の日記には、「今日より打ち払い相初め候由、松平様より御達し御座候へ共、今以て御沙汰これなく、愛で度し」(『雑書』5月11日)と、何も起こらなかったことへの歓びがあふれている。さらに、忠兵衛忰が横浜から帰ってきて、横浜は穏やかになっていて、奉行所からも「渡世専らに致す様」御沙汰が出ていることを伝えてきた(『雑書』5月12日)。
 
おわりに
 以上、文久3年のはじめ半年間を、小野路村にどのような江戸・上方情報が届いているか、鹿之助や角左衛門ら名主層は、それをどのようにとらえているかについて、2つの小島日記の記述に即して、したがって日時を追ってたどってきた。この間の江戸からの情報は、村方にとっては直接的に影響を受けるものであった。江戸の軍事的緊張は、地頭である旗本の緊張であって、村方ではすなわち上納金の必要と人足の差出しにつながり、また疎開の受け入れのための御殿建設ともなった。
また、今回は触れられなかったが、対外的緊張に基づく幕府の兵制改革が始まっており、すでに昨年暮れには兵賦令というこれまでにない制度も始まり、今年2月には兵賦1人出すようにとの命令が届いている。税として兵士を出すという徴兵制のはじめであり、今後幕末までつづく新たな税負担であった。これについては次回以降に取り上げていく。また、文久3年という年は、京都で八月十五日の政変といわれるクーデターが起こった年であり、これに関わる情報の錯綜の状況も、ぜひ検討してみたいと考えている。
小島日記研究会報「おのぢ艸」第45号(2015年4月18日発行)より転載