昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅴ編 近代の昭島

第2章 大正から昭和へ

一 大正の時代になって

 蚕種の生産量に見られるように、昭島の市域における養蚕業の技術が高かったのは、江戸時代から養蚕が盛んな地域であったこともありますが、技術の改良と発展に努めた人々の存在が大きく反映していました。
 明治二十三(一八九〇)年、大神村の石川国太郎たちが、西多摩の下田伊左衛門を中心に成進社をつくり、養蚕の振興を行ってきました。それが、明治四十一(一九〇八)年、石川、紅林、下田、福生村高崎の四か所の講習所に分所されました。
 石川は、石川国太郎による大神村の石川蚕業講習所、紅林は郷地村の紅林徳五郎による紅林蚕業講習所でした。
 講習所では、優良な蚕種の製造・販売、養蚕技術などの指導者の養成や一般の養蚕農家に対する技術指導を行い、その受講生は一万人にもなりました。このように、指導者の育成や技術の指導が基礎となって、昭島の市域の養蚕業が発展しました。
 石川国太郎は、大正元(一九一二)年、東京蚕種同業組合ができるとその副理事長になり、後には組合長として、その発展に尽(つ)くしました。また、紅林講習所は、ほかの講習所が次第に衰退していくなかで、成進社の中心となって技術の普及に努め、外国からも研修や視察に来るほどの優秀な技術を持っていました。
 一方、明治時代の中ごろに創業し西川製糸は、大正五(一九一六)年には、合資会社に成長し、北多摩でも有数の大工場になりました。
 このように、大正から昭和にかけての昭島の市域は、農家の大部分が何らかの形で養蚕業にかかわっており、まさしく養蚕の村とよばれるにふさわしいありさまでした。

紅林蚕業講習所 昭島市民秘蔵写真集より