昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅴ編 近代の昭島

第2章 大正から昭和へ

一 大正の時代になって

 大正三(一九一四)年、第一次世界大戦が起こりました。この戦争は、ドイツ・オーストリア・イタリアとイギリス・フランス・ロシアの争いを中心に、大正七(一九一八)年まで続きました。ヨーロッパを中心に世界の各地で戦闘が行われる今までにない大規模な戦争になりました。
 イギリスと日英同盟を結んでいた日本は、同盟国として戦争に加わり、中国のドイツ軍の基地や南洋諸島を攻撃し、その地域を占領しました。
 この戦争により、戦場となったヨーロッパの国々の産業が停止状態になったため、日本からヨーロッパや東南アジアの国々への輸出が急激に増えました。その結果、日本の経済は好景気になり、産業も大きく発展しました。特に、工業の発展はめざましく、工場や工員の数が増え、工業の生産額が、農業生産額を上回るようになりました。日本は、この第一次世界大戦を契機に、工業国の仲間入りをしました。
 しかし、一方では、好景気が物価の上昇をもたらし、国民の生活を逆に苦しめる結果になりました。
 特に、米の値段は、大正七(一九一八)年には、一升が五十銭にもなり、戦争が始まる前の四倍にもなりました。
 米を安く売ってくれることを求めて、全国のあちこちで米屋や米を蓄えた富農層を襲うという米騒動が起こりました。東京にも騒動が波及し、政府は軍隊を出動させ、これを鎮圧しました。さらに、戦争が終わり、ヨーロッパの国の産業が復興するとともに、輸出が減り不景気になりました。このようななかで、生活の安定や人権の保障を求める動きが活発になってきました。政府は、このような動きを無視できず、恩賜金や国庫金を出し、米を安く売るようにさせました。
 昭島では、拝島村の宮川国太郎が、村の困窮している人々を救うために十円の寄付をし、感謝状をおくられています。昭島の市域も、物価高のために生活に苦しむ人々が多数いたものと思われます。
 このような社会不安をもたらした責任から、寺内内閣は辞職に追(お)い込(こ)まれ、大正七年、原敬による政党内閣が誕生しました。
 大正元(一九一二)年のころより、藩閥や軍閥により握られていた内閣に対して、憲法に従った政治を求める護憲運動が盛んになっていました。
 また、普通選挙の実施、不当な差別の解消、女性の権利、労働者や小作人の権利を求める動きなど、人権を主張する考えが、明治の末期から大正にかけて生まれてきました。
 米騒動を契機にした政党内閣の誕生は、普通選挙を求める人々の動きへと発展し、大正九(一九二〇)年には、普通選挙を求める大規模なデモが行われました。

普通選挙を求める集会 大正8(1919)年4月13日上野公園 毎日新聞社提供

 政府は、まず納税金額による資格制限を、直接国税十円から三円に引き下げ、その緩和を図りました。しかし、国民はそれに納得せず、大正十四(一九二五)年、国民の男子全てに選挙権を認める普通選挙法の実施を引き出しました。しかし、女性の選挙権は認められませんでした。また、政府は、治安維持法を成立させ、政治活動を制限しようとしました。