昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅴ編 近代の昭島

第1章 明治政府の成立と昭島

三 学校ができて

 学校ができたころの学校の組織をみると、執中舎の発足当時は、学校後見職(いまの校長)窪素堂(長沼村、現八王子市)、読書教師大沢浜次郎(拝島村)、習字教師中村朝次郎(大神村)、算術教師田村金十郎(宮沢村)でした。明治七年には、教員男子二名、生徒は、男子五十二名、女子十八名でした。
 拝島学校では、明治九年、教師が三名、生徒は、男子六十六名、女子二十名であり、この時期の多摩地区の他の学校と比べても平均的な規模でした。しかし、教師三名のうち、正訓導は一名であとは助教でした。訓導でも月給が十円であり、助教はわずか二円でした。おそらくこれは、村内のボランティアによるものだったと思われます。日本の近代教育の始まりは、このような人々の情熱により支えられていました。
 学校はできたものの、まだ就学する生徒は少なく、特に、女子にその傾向が強くありました。
 それは、授業料の徴収があったことと、当時の子どもが家の大切な労働力であったからでした。現金収入の乏しい家庭が、授業料を払ううえに仕事もさせられなくなる、ということは一大事でした。まして、女性に教育を受けさせることなど必要がない、といった考えの時代であったため、就学率はなかなか上がりませんでした。
 明治七年の授業料は、月平均四銭三厘であり、学校の維持運営は、すべて村の負担になっていました。そのため、村では、村の各戸から一定の比率で金額を徴収し、それと授業料で学校を運営していました。
 明治九年の拝島学校では、一か月の収入が十六円八十一銭三厘八毛で、支出は、訓導や助教の月給十四円、炭薪代一円三十二銭、その他、水油代、本代など合計十六円二十八銭七厘で、ぎりぎりの運営状況でした。