昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅴ編 近代の昭島

第1章 明治政府の成立と昭島

二 文明開化の波が

 明治になってから、玉川上水を水路とする通船が認められました。それまでの陸を人馬の力でする輸送に比べ、この通船の許可は、産物を東京に輸送する人々にとって画期的なことでした。
 ところが、江戸の飲料水である玉川上水の汚れなどを理由に、これが中止になってしまいました。陸送に比べ六分の一という経費で輸送できる船による輸送手段を失った人々は、通船の再開を何度も請願しましたが、認められませんでした。

拝島の渡し(大正11年)「目でみる多摩の一世紀」より

 そこで、明治十六(一八八三)年ころ、玉川上水の堤を利用して、新宿から羽村の間に鉄道馬車を引くことを計画しました。しかし、これは認められず、次に、東京から青梅を結ぶ甲武馬車鉄道の計画をしていました。
 このころになると、産業の振興と鉄道の重要性から、蒸気鉄道の計画が各地で起きてきました。馬車鉄道の発起人たちは、計画を蒸気鉄道に変更し、明治二十一(一八八八)年、県より認可を得ました。
 この時期は、第一次鉄道ブームで、全国で鉄道の建設が行われました。甲武鉄道もこの一環でした。
 しかし、この甲武鉄道の建設が、すべて順調にいったわけではありませんでした。三多摩の大きな村とその集落は、甲州街道に沿ってありました。昭島における集落が、奥多摩街道沿いにあったのと同様でした。
 輸送の便利さを考えれば、甲州街道に沿ったルートに建設するのが一番でした。ところが、蒸気機関車の火の粉や煤煙が、家や田畑に及ぼす影響を心配し、鉄道の建設に反対する村人もかなりいました。
 そのため、農地や人家に影響の少ないルートをとることになりました。
 現在の中央線が中野より立川まで、ほぼ一直線であるのはこの結果でした。