昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅴ編 近代の昭島

第1章 明治政府の成立と昭島

二 文明開化の波が

 昭島の村々では服装や建物、食べ物が西洋風になるといったことはみられませんでした。しかし、昭島が、東京や横浜から離れた農村とはいえ、横浜が開港するとともに生糸の取引で、西洋の文化に接していた人もいました。商品を取り引きする上層の農民が江戸の文化を持(も)ち込(こ)んだように、文明開化の流れを早い時期より昭島にもたらしたと思われます。
 早くも、明治六(一八七四)年には、上川原村の指田忠左右衛門が品川の商人に、豚二十二頭を送っていました。日本では、仏教思想の影響により、豚肉や牛肉を食する人は多くいませんでした。ところが、明治になってからわずかの時期に、牛肉だけでなく、豚肉も食べるようになっていたのでした。そのような食の変化を敏感にとらえ、指田忠左右衛門は養豚を行っていたのでした。養豚は、明治二、三年ごろより始めたようで、この時代の先進的な事業でした。
 同じように、新しい事業として、人力車がありました。
 拝島村には、明治十五(一八八二)年、三十二人の人力車夫たちがいました。一つの村にしては多い人数で、それだけ利用する人々がいたあかしです。東京で人力車が増えだしたのが明治四、五年ころで、拝島では、明治七年ごろから営業願いが出されていました。
 残されている運賃表には、地名と距離、運賃が示されていて、その利用範囲を知ることができます。主に品物を取り引きする人々が、その取引先の行き来に利用していました。
地名里程賃銭
箱根ヶ崎二里二五銭
青梅三里半五〇銭
府中四里五〇銭
川越七里半一円
五日市三里五〇銭


人力車(拝島町大正11年ごろ)昭島市民秘蔵写真集より