昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅳ編 近世の昭島

第2章 幕末(ばくまつ)の昭島

二 江戸幕府が滅(ほろ)びる

 昭島の南を流れる多摩川は、いつの時代でも昭島に住む人々の生活と深いつながりを持ってきました。
 特に、治水の技術が十分でなかった江戸の時代には、何度もの洪水にみまわれ、作目村は名前だけの村になってしまい、築地村や上川原村は、村ごと台地の上に移住するということもありました。また、その他の村でも水害による影響は多くあったと思われます。
 しかし、普段の多摩川は、村に多くの恵みをもたらしました。郷地村で鮎を特産物として運上していたように、川で捕れる魚は、村人の貴重な食料でした。鷹場として管理され、鳥や小動物を捕(と)ることができない村では、魚が唯一のたんぱく源でしたが、川のない地域に比べ豊かな食生活をもたらしてくれました。
 魚捕りは、協同で行うこともあり、村人の楽しみでした。捕った魚は夕食のぜんをにぎわし、余った魚は、いろりの上で干し、干し魚として保存をしておき、祝い事や食料の不足する時期の蓄えとしました。
 子どもたちにとっても、川遊びや魚捕りなどの楽しい遊び場でした。

寄せ網 昭和10年代の立川の写真だが、昭島でも昭和30年代まで行われていた。
立川・昭島の100年/郷土出版社より

 多摩川は、荷物の運搬にも利用されていました。江戸の町の発展や火災にあった家を再建するための普請がいつも行われ、その工事のための木材が青梅などの山地から筏を組んで運ばれていました。この筏を利用して江戸に荷物を運ぶことも多くありました。筏は人馬で運ぶより、早く大量の荷を運ぶことができたからでした。

蛇篭 大水に備えて蛇篭や牛とよばれる木組みを沈めた。
昭島市民秘蔵写真集より