昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅳ編 近世の昭島

第1章 幕藩体制(ばくはんたいせい)の成立と昭島

二 新田開発と村々の広がり

 農業にとって耕作地と同様に欠かすことのできないものが山と水です。
 山とは、耕作に必要な肥料を確保するための刈草や灰、木の葉などを得るための林野です。この時代では、まだ、たい肥(ひ)や灰が主たる肥料でした。
 肥料を作るために、林野の落ち葉を集め、草を刈(か)り、燃料の木々を取る権利を入会権といいました。この入会権を持っていなくては、農業経営ができませんでした。そのため、この林野に立ち入る権利をめぐっての村と村の争いもあったようです。
 また、農業用水も同様に重要なことはいうまでもありません。
 昭島の地域を流れる「九か村用水」は、拝島村の西、熊川村の地で多摩川から取り入れ、昭島の村々を灌漑して柴崎村に抜(ぬ)け、再び多摩川に入っていました。
 上川原村を除く八か村と柴崎村では、用水組合をつくり、この用水路の管理や補修をしていました。この用水は延宝(一六七三~八一年)のころには既にできていたと思われます。
 昭島の北部には玉川上水が流れています。江戸の飲料水を確保するために開削されたものですが、その分水により多摩の各地が潤いました。しかし、昭島に分水が引かれたのは、完成より八〇年ほど後になります。
 一七四〇年、拝島村の飲み水として分水が許可され、村の北より引き入れ、宿場のなかの小川を東に流れ、田中村で九か村用水と合流していました。

九か村用水取り入れ口(写真集・多摩川は語るより)


一町二か村用水堰(写真集・多摩川は語るより)