昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅳ編 近世の昭島

第1章 幕藩体制(ばくはんたいせい)の成立と昭島

二 新田開発と村々の広がり

 それぞれの村は、段丘に沿った集落を中心に南北に細長い短ざく型にのびていました。そして、ほとんどの村が、南から多摩川に面した低湿地、段丘面(拝島・青柳・立川の各段丘)、更に、北の平らな武蔵野台地につづくという形態をなしていました。
 郷地村の絵図で見てみると、東西に村を横切る五日市道(奥多摩街道)に沿って集落があります。段丘に沿って自然林があり、段丘の下からわき出るわき水の近くに人々が家を構え生活をしていました。集落の北側の林は、武蔵野特有の季節風や砂塵を避(さ)けるための、屋敷林といわれるものでした。
 その南の低湿地には、わき水に多摩川の分水「九か村用水」とそれからの分水がありました。村の人々は、この低湿地に早くから水田を開きましたが、この地は洪水を受けやすく良質な田ではなかったようでした。
 段丘のうえは、畑作地が広がりさらにその北側には山と呼ばれた自然林がありました。この自然林は秣場ともいわれ、薪や家畜の飼料、田畑の肥料を得るための場としての役割を果たしていました。

郷地村絵図(1820年代)