昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅳ編 近世の昭島

第1章 幕藩体制(ばくはんたいせい)の成立と昭島

一 江戸(えど)に幕府(ばくふ)ができて

 近世の村を構成していた農民は、本百姓と呼ばれていました。
 彼らは、検地により検地帳に登録された農民でした。田畑や屋敷を所有し、耕作に欠かすことのできない用水を確保するための用水権や肥料を確保するための入会権を持っていました。また、年貢の負担者として登録され、所有する耕地に応じて年貢を納めました。
 農民たちは、所有する耕地の生産物の中から、一年間の必要経費と食料を除いた大半を年貢として取り立てられ、ぎりぎりの生活を強いられていました。
 幕府は、寛永十年代(一六三三~四三)の凶作、天草・島原の乱などをきっかけに、それまでの「余った生産物をすべて取り立てる」という農村政策を転換しました。財政の基礎となる年貢を確保するとともに、農民の農業経営の安定を図るために、農民の手元に少し余りが残るようにしました。さらに新田開発を奨励し、小規模の農民の自立をさかんにすすめていきました。
 また、一方では、五人組の制度、田畑永代売買の禁令、御触書などにより、農民を土地に縛り付(つ)ける政策を実施しました。
 幕府の農村政策が転換したことにより、農村の生産力は向上していきました。そこで、幕府は一六六七(寛文七)年、幕府領の検地を行いました。
 昭島市域で、確認できるのは、拝島・田中・大神・上川原・中神の一部です。
 この寛文検地帳には、耕地ごとに、小字名、田畑の等級、面積、耕地の所有者(名請人)が記録されています。
 名請人の階層を見ると、各村とも上位に入る農民の比率が少なく、上川原を除くと、ほとんどが五反以下の層に属していました。
 本百姓として認められていたものの、自立農民として、安定した農業経営ができるまでには至っていませんでした。
 
慶安の御触書
一 朝は早く起きて、草をかり、昼は田畑を耕し、晩は縄や米俵を作り、気をぬかずに仕事をすること。
一 酒や茶を買って飲んではいけない。
一 食物は大切にして、麦や粟・ひえ・菜(な)・大根などを作り、米は多く食べないようにしなさい。
一 農民は、麻と木綿のほか、着てはいけない。