昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅲ編 中世の昭島

第2章 戦国(せんごく)時代の昭島

三 紅林文書(くればやしもんじょ)と後北条(ごほうじょう)氏

 北条氏照は、領内の実務の執行を、奉行人に行わせました。
 残された文書によると、一五五九(永禄二)年の奉行人に、布施兵庫大夫と、横地監物丞の名前があります。別の文書によると、二人とも、後北条氏の譜代直臣が務める御馬回衆であったことがわかってきます。
 また、別の文書によると、一五九〇(天正十八)年までの奉行人として、十七人の名が確認できます。その中に、四人の大石姓がいます。
 このことから後北条氏が、一方で譜代を使い、一方で大石氏の旧臣を登用し、新旧家臣の融和を図りながら領国経営した知恵と工夫が見えてきます。
 一五六一年以降、上杉謙信の関東侵入が始まります。そうすると、後北条氏に従っていた在地領主の中から、再び上杉氏になびく者がでてきます。そこで、氏照の在地勢力の再征服が始まります。再征服の戦いの中で、大きなものの一つに、青梅の勝沼城に拠(よ)る三田綱秀の討伐があります。
 そして、三田氏を滅ぼすことによって、滝山城の支配地域は、武蔵国の、入間郡、高麗郡まで広がりました。滝山城のお膝元にある昭島地域は、滝山支配地域の、ほぼ中央に位置することになりました。
 なお驚くべきことは、この三田氏との戦いで鉄砲一挺が使われた記録があることです。
 鉄砲が、九州の種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたのが一五四三(天文十二)年です。勝沼城合戦は一五六一(永禄四)年ですから十八年足らずの速さで青梅まで伝わってきたことがわかります。
 三田氏が滅ぼされれば、三田氏の旧臣が、氏照の家来になります。このように征服地域が広がれば、被征服地域の旧臣や地侍が、氏照の家来として加わってきます。
 そこで氏照は、後北条氏から付けられた家臣や、大石氏の家臣など有力な武将を寄親にし、後から入って来た者を寄子にする軍事組織をつくりました。
 こういう、農村から独立した兵力をつくるのが、戦国大名が行った兵農分離です。しかし後北条氏は、先進大名ほどには、この兵農分離が成功しなかったようです。このことが、後の、後北条敗退の、大きな原因になったと考えられます。
 郷地の紅林家に、後北条時代の文書四点(一~四号)が保管されています。昭島に残る、貴重な中世文書です。
〈一号-北条幻庵感状〉
 一五六七(永禄十)年、後北条・武田の連合軍が廐橋(現前橋)で、上杉軍を破りました。この戦いで軍功をたてた紅林八兵衛に対し北条早雲の子幻庵(宗哲)が出した感謝状です。
 よく戦ったとほめたうえで、「太刀一腰をつかわす」とあります。
〈二号-北条氏政感状〉
 一五七二(元亀元)年、北条康成が守る深沢城(現静岡県)に、武田軍が攻めて来ました。救援にかけつける北条氏政に紅林八兵衛も従いました。
 この戦いで八兵衛は、敵陣にしのび込み、松長左大夫を討ち取りました。
 このことを誉めて「太刀一腰を与える」という、氏政の感状です。
〈三号-北条氏照印判状〉
 一五七三(天正元)年の文書と推定されています。
 この文章から、紅林八兵衛は、この時、北条氏照の家臣であることがわかります。この文書の内容から八兵衛が、どういう立場の家臣であるか、また前ページで述べた寄親や寄子の関係などが考えられます。
〈四号-おなへ母書状〉
 書かれた年代はわかっていません。
 八兵衛が出陣中に、娘のおなへが結婚し、既に男の子が誕生しているという、妻からの手紙です。
 また、八兵衛が、陣中から細々したことまで書いてくれた手紙のお礼や、出陣先がわからないので、返事を書くことができないと、もどかしい気持ちも述べられています。
 
 八兵衛がどういう人なのか。また、これらの文書の解釈も定まっていませんが、昭島の中世を知る貴重な資料です。