昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅲ編 中世の昭島

第1章 鎌倉・室町(かまくら・むろまち)時代の昭島

五 大神村と、観音寺(かんのんじ)・駒形神社

 宮沢村の西の大神村も、『新編武蔵風土記稿』に載(の)っています。「鎌倉時代から開発されて、相当な集落をつくっている」と書かれています。
 地名の由来については、二つの説が述べられています。
 一説は、「古くから神明宮が祭られていたので、大神宮村といったという」です。現在、お伊勢の森がその場所だという伝承はありますが、はっきりはしていません。
 一説は「この地域の人々は、相模国の大上から移って来た。それらの人々がこの地に、大上山観音寺を建立した」というものです。
 確かに、大上山観音寺は、現在もあります。その前身は、鎌倉時代末に創建の東勝寺であるといわれています。
 東勝寺は、現在の小字東勝寺通五百十番地にありました。一五六九(永禄十二)年の滝山合戦◇で、兵火にあって焼失しました。現在は、跡地に、延命地蔵を祭った東勝庵が建っています。境内は、共同墓地になっています。
 観音寺には、一三五六(延文元)年銘をはじめ板碑が数基保存されています。いずれも、浄土や東勝寺跡から発見されたといわれています。
 『新編武蔵風土記稿』には、「大神村には浄土という小字がある。これは、浄土寺というお寺があった所で、古碑がたくさんある」とも書かれています。
 確かに、鎌倉時代に、浄土寺があったことの証拠はあります。しかし、現在の小字浄土が、浄土寺の跡である証拠は、まだ見つかりません。
 大神村の鎮守は、駒形神社です。東勝寺同様、滝山合戦で焼失した記録があるので、それ以前の創建と考えられます。
 このように、大神村も、宮沢村同様、鎌倉時代から集落を形成していったと考えられます。
 多摩川に南面したゆるやかな河岸段丘の地域は、人々が住みつくのに適した土地です。そのうえ、水が得やすかったので古くから集落がつくられていったのでしょう。この中央部に位置するのが、宮沢村と大神村です。
 この付近が、鎌倉時代から開かれていた証拠の一つに、板碑があります。
 現在、昭島市から発見された板碑は、三分の二弱が、宮沢・大神から発見されています。この地域が、昭島で、早くから開けた証拠の一つです。

駒形神社

・創建は、一五六九(永禄十二)年以前。
・本殿は、一七六一(宝暦十二)年再建。
・馬が、交通・運輸で重要な働きをしていた時代、特に江戸時代、馬匹業者の信仰を集め、奉納絵馬も多い。

観音寺

・天台宗。大上山薬王院。
・一五六九(永禄十三)年、武田勢力によって、東勝寺が焼かれた後、徳川家康の助成により現在地に再建されたと伝えられる。
 
◇滝山合戦
 山内上杉氏に属する、武蔵国守護代大石顕重が、一四五八(長禄二)年高月城(現八王子市高月町)を築城。一五二一(大永二)年これを東に移して築いたのが、滝山城である。
 大石定久の代に、北条氏康の二男氏照(一五四〇~九〇)を養子に迎えた。氏照は、滝山城を、後北条氏の領国支配の一拠点とし、後北条氏のために活躍した。
 一五六九(永禄十二)年、甲斐武田氏の猛攻を受けた。世にいう「滝山合戦」である。武田勢は、一軍は小仏峠を越えたが、信玄のひきいる本隊は、上野国を経由して、滝山城の対岸拝島に陣を敷(し)いた。ために付近は戦場になった。
 一五七八(天正六)年、氏照は、城を、滝山から八王子城に移した。