昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅲ編 中世の昭島

第1章 鎌倉・室町(かまくら・むろまち)時代の昭島

一 鎌倉幕府(かまくらばくふ)と武蔵(むさし)の武士

 源頼朝は、一一八四(元暦元)年、公文所◆と問注所◆を設けました。
 さらに翌年の一一八五(文治元)年には、叛旗をひるがえした、源義経・行家を追討するという名目で、全国の守護・地頭を任命する権限を得ました。こうして、全国を支配する基盤と、全国の警察権を掌握することができたのです。
 一一九二(建久三)年三月、後白河法皇が崩御されました。その七月、それまで希望してもなれなかった征夷大将軍◆に、やっと任命されました。
 これで、名実共に、鎌倉幕府が成立したといえます。
 この、鎌倉幕府成立までには、もちろんいろいろな事件がありました。
 源義仲や平氏の追討もありました。
 源義経や、奥州藤原氏の征討もありました。
 また、一一九〇(建久元)年、頼朝の、後白河法皇のもとへの上洛や、一一九五(建久六)年、東大寺復興供養のための、家族を伴っての上洛もありました。これらのすべてに、関東武士は、中心になって働きました。
 例えば、鎌倉幕府の正式な記録といわれる『吾妻鏡』には、頼朝の第一回の上洛には、三百十三人の武士がお供をしたと書いてあります。そのうちの、百四十人が、武蔵の武士であるとしています。
 『吾妻鏡』には、その他の場面にも、活躍した、武蔵の武士の名があります。このように、鎌倉幕府のために、武蔵の武士は、中心になって働いたことがわかります。
 
◆公文所
 平安時代は、国衙の中の、公文書を扱う役所の名であった。
 鎌倉時代になって、一般政務を行う役所となった。
 後に、政所ができると、その下に組み込(こ)まれた。
◆問注所
 頼朝が、訴訟や裁判を行う役所として設置した。
 室町幕府にも、同名の役所が設けられたが、権限が縮小されていた。
◆征夷大将軍
 平安時代、東北の蝦夷征討のために、律令の外の官として設けられた。
 七九四(延暦十三)年が最初で、一時中絶していたが、鎌倉時代以降江戸時代まで、武士政権の首長に、天皇から任命された職名。