昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅱ編 原始・古代の昭島

第4章 奈良・平安時代の昭島

八 武士団の発生と武蔵国(むさしのくに)

 七四三(天平十五)年、新たに開墾した土地は、ずっと私有地にしてよいという「墾田永年私財法」が出されました。荘園の始まりです。
 中央集権を支えていたのは、公地公民の制です。私有地を認めることで、中央集権は崩れていきました。
 荘園は、最初は税を払っていました。しかし平安時代に入ると、権力者の荘園は税を納めなくなりました(不輸)。そのうえ役人が検査のために入ろうとしてもこばむようになりました(不入)。これを「不輸不入」といいます。
 そこで豪族◆は、私有地を、名義上、有力な貴族や寺社に寄進して、不輸不入の特権を得ようとしました。いっぽう荘園領主は、これらの豪族を使って、荘園を護らせるようになりました。
 豪族が武力をもって領地や荘園を護ろうとすれば、国衙の官兵や、他の名主や荘官◆も、対抗して武力を強くしようとします。こうして地方には、さまざまな武士団が育っていきました。
 武士団は、まず同族を中心に、それぞれの家子◆・郎党◆・下人◆で形成されました。
 浮浪の民や、農家の二男・三男を組み込んで、強力になった武士団は、隣接する武士団を打ち破り、領地を広げると共に、いっそう強力になりました。
 これらの武士団は最初、中心になる血族の、惣領を頭にしてまとまっていました。これを党といいます。
 この血縁の党は、鎌倉時代になると、地縁的連合に変わります。家を惣領に継(つ)がせる習慣が薄れ、集団の中で、力も人望もある人が継ぐようになったからです。これも党と呼ばれました。
 血縁をこえて党が大きくなると、土地を媒介としての主従関係が生まれました。ここに「一所懸命◆」の武士が誕生したのです。
 武士団の支配地は、一郡から数郡、ときには一国にも及ぶように広がっていき、変化も激しいものでした。
 平安時代後期になると、武蔵国は、七党とも十党ともいわれる武士団にまとまり、互いに勢力を競い合うようになりました。
 ただし、武蔵国では、惣領と庶流の関係がはっきりしていません。領地も入り交じっていて、そのうえ変化しています。これが、武蔵国武士団の、一つの特徴とも考えられます。
 そのころ中央では、一〇六八(治暦四)年、北家藤原氏と外戚関係のない、後三条天皇(一〇三四~七三)が即位されました。天皇は、摂関政治をおさえ、親政を行いました。
 一〇七二(延久四)年、白河天皇(一〇五三~一一二九)が即位され、親政を行いました。ここに摂関政治は、事実上終わりになりました。
 白河天皇は、一〇八六(応徳三)年退位しました。しかしその後の堀河・鳥羽・崇徳の三代の天皇の時代も、四十三年間にわたって、院庁で政治を行いました。院政の始まりです。
 院庁で政務をとる院司の長官を別当といいます。初めは五人でしたが次第に増えて、二十人にもなりました。この中に、たくさんの受領出身者が入りました。
 また院では、その勢力を維持するために、滝口の武士◆に対抗する北面の武士◆を登用しました。
 こうして、地方の受領や武士の、中央政権進出の機会が生まれました。
 
◆豪族
 古代から中世までの、その地に土着して、かなりの私有地を持って、同族集団として、結束している勢力。
 大化の改新前の、国造や県主、改新後の、郡司・里長、平安以降の、荘官や名主など、出自は多様である。
◆荘官
 荘園にあって、荘民を総括し、収税をする、現地の管理者。
 時に武力をたくわえたり、浮浪の民を吸収したり、荘園の、ひいては自分の力を強めていった。
◆家子
 同族団の庶流で、領地は持っているが、惣領と主従関係にある者。
◆郎党
 血縁もなく、領地もない、従者。
◆下人
 家子・郎党に隷属する者。
 
◆一所懸命
 一所懸命の地。本領のことをいう。
 普通、鎌倉武士に使われているが、本来は、自分自身が開発したり、開発地と称して、多年所有している土地のことをいう。
 この土地を護るために、それを認めてくれる主人に、命をかけること。
◆滝口の武士
 宇多天皇の寛平(八八九~九八)年間に設けられた。宮中の護衛に当たる職。
 清涼殿の東北の、滝口の近くに詰(つ)めていたので、この名がついた。
◆北面の武士
 白河上皇が、院政を行うに当たり、滝口の武士に対抗して設けた、院の護衛に当たる職。
 院の、北側に詰めていたので、この名がついた。