昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅱ編 原始・古代の昭島

第4章 奈良・平安時代の昭島

三 玉川町発見の火葬墓(かそうぼ)

 青梅線の東中神駅の南西約五十メートルの、立川段丘から発掘されました。
 一九七八(昭和五三)年、ここで、下水道の埋設工事が行われていました。三月七日、はがしたアスファルトの下から、たくさんの炭が出てさました。
 これを見た、現場責任者の久保田さんは、一か月ほど前の「太安万侶◇の墓・炭の中から発見」という新聞記事を思い出しました。
 早速、市教委が調査した結果、高さ三十センチ強の、石の容器が出てきました。(写真3)

1.発掘時の石櫃と、蔵骨器の蓋をとった状態


3.八角形の石櫃

 身も蓋も八角形で、もろい、凝灰質砂岩でできていました。蓋は、長い間、上からの圧力を受けたためか、ひびが入っていました。
 石櫃から、各々四指を持った三本の獣脚付きの蔵骨器(写真2)が出てきました。中は火葬骨でした。細片化していて、その後の調査でも、年齢・性別とも、わかっていません。

2.獣脚付蔵骨器

 石櫃の出土は、少なからずあります。しかし、八角形のものは初出土です。
 八角形といえば、天武・持統両天皇の合葬墓、奈良県明日香村の、檜隈大内陵があります。また、法隆寺の夢殿◇もあります。これらを模したものだろうと考えられています。
 獣脚付き骨壺の出土は、全国で数例しかありません。そのうち三例が、東京近郊から発見されているのは不思議です。一つは東村山市。もう一つは川崎市有馬です。どちらも平安時代と推定されています。玉川町のものは、奈良時代前半のものと考えられています。
 また骨壺は、岐阜県美濃須衛古窯跡群で作られたものと考えられています。
 玉川町から火葬墓が発見されたことは、昭島の歴史を考えるうえで、大きな意味があります。それは、奈良・平安時代の、墓そのものの発見が少ないからです。また、集落跡から離れた、立川段丘上から発見されたことです。
 それは、仏教思想が入ってきたことや大化薄葬令◇が出されたことが原因と考えられます。また、墓は当時、住居から離れた所につくられたのだろうとも考えられます。
 古墳では普通、石室の中に、遺体を納めた棺が有(あ)ります。ところが秋川市にある瀬戸岡古墳群には、火葬した骨を入れた骨壺が入ったものがあります。伝統的な古墳に、仏教的な埋葬法が入ってきた、過渡期のものでしょう。
 日本では、火葬は、道昭◆が最初といわれます。とすると、意外に早く東国まで普及したことになります。
 
◇太安万侶(~七二三年)
 天武天皇の命により、稗田阿礼の暗誦を基に、推古天皇までの皇統を明らかにした『古事記』三巻を作る。
 七二〇年『日本書紀』を撰ぶに当っても、舎人親王と共にかかわった。
 一九七八年初頭、彼の墓が木炭に覆われる(木炭槨)というあまり例のない埋葬形態で発見された。墓誌があったので、安万侶の墓と、認定された。
◇法隆寺の夢殿
 奈良県斑鳩町にある、伝六〇七年建立の法隆寺東院の中心的建物。
 一辺二間(四・六六メートル)の、八角堂で、聖徳太子の等身といわれる、観音菩薩像がまつられている。
 聖徳太子の造った、斑鳩宮跡に、七三九年、行信が建てたと伝えられている。
 
◇大化薄葬令(六四六年)
 古墳づくりが盛んになり、大規模になってきて、財政面や、使役の酷使が問題になってきた。そこで、大化の改新に当たり、改善策として出された。
 身分・地位に応じて、葬式の規模、造墓のための人数・日数・飾りなどを定めたものである。
◆道昭(六二九~七〇〇年)
 日本法相宗の祖。
 六五三年、学問僧として遣唐使船に乗り、中国に渡る。
 玄奘三蔵(後、小説『西遊記』の主人公になる人)の弟子になり学ぶ。
 六六〇年帰国し、元興寺に禅院を建てて、坐禅に努める。
 没後、遺命により、荼毘に付された。これが日本最初の火葬である。
 行基も、道昭に学んだといわれる。