昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語

昭島の歴史

第Ⅱ編 原始・古代の昭島

第3章 古墳(こふん)時代の昭島

一 古墳(こふん)時代

 稲づくりを覚えると、人々は定住するようになりました。
 田が増え、人口が増加してくると、人々をまとめたり、仕事を指図する人が必要になりました。こうして、かしらが生まれました。
 かしらを中心に、むらができました。
 むらとむらとの間で、水や土地をめぐって、争いが起きました。
 勝ったむらが、負けたむらもまとめるようになり、むらにはおさ(長)が生まれました。
 むらは、近くのむらを吸収したり、また連合したりして大きくなり、くにになっていきました。
 邪馬台国(やまたいこく・やまと)に卑弥呼◇が出現したのは、このころのことと考えられます。
 このように古墳時代は、縄文、弥生時代に続く、人々の生活が大きく変わっていく、原始時代の一区分名です。
 三世紀のころから、西日本を中心に、勢力の強い王が生まれました。
 王は、権力の象徴として、後継者は権力の継承を示すために、大きな墓をつくるようになりました。代表的なものが、大山古墳です。

大山古墳
伝 仁徳天皇陵
・大阪府堺市大仙町
・百舌鳥耳原中陵
(モズノミミハラナカノミササギ)
・三重の堀で囲まれていた
・円筒埴輪2万余本と推定される

 古墳づくりの文化は、日本全土に広がっていきました。この広がり具合から、西日本から起こった王朝の勢力が、いつごろ、どこまで広がったかを見ることもできます。
 古墳には、その外形から、前方後円墳、円墳、方墳などの名が付けられています。
 初期の古墳には、一般的に中国の影響が多く、副葬品も、剣・鏡・玉が主でした。
 前方後円墳は、円形と方形を組み合わせた墳丘です。古墳時代前期から後期にかけて多い、日本独得のものです。遺体を入れる石室は、この時代は普通、竪穴になっています。
 やがて、国の勢力が朝鮮半島に及ぶと、中国の文物が、いっそう入ってくるようになりました。古墳時代の後期であるこのころからの古墳は、横穴式石室になりました。
 横穴式石室になって、遺体を安置する玄室までの道が残されたので、家族の遺体を、追葬したものも現れました。副葬品も、武具や装身具が多くなりました。埴輪◇も並べられるようになりました。
 古墳時代の終末には、数十から数百の小古墳を集めたものや、自然の崖に横穴を掘(ほ)って葬る、集合墓も出現するようになりました。埼玉県の吉見百穴は、その代表の一つです。
 
◇卑弥呼
 中国の史書、『魏志』の東夷伝の倭人の条に、三十国余を治める女王として出ている。巫女的であったとある。
 西暦二三九年、難升米という者を使いとして、さまざまな献上をしてきたので、魏王は『親魏倭王』の称号と金印、その他を返礼として与えたとある。
 邪馬台国の位置を、九州とするか大和とするか、またはその他にするかは、今だに論争が続いている。
◇埴輪
 古墳時代の、素焼の土製品。大きく、円筒埴輪と形象埴輪に二分される。
 後から出現した形象埴輪には、家形・器財・動物・人物などがある。それぞれに出現する時期があるし、具象的であるので、埴輪から、その当時の生活の様子がうかがえる。