日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

日本ラグビーフットボール史

戦後の国際交流

Ⅴ 花開いたセブン・アサイド(7人制)ラグビー

 日本ラグビーもいまでは4月から7月にかけてのプレシーズンがなくなった。4月の新年度とともにラグビー界は日本代表チームはじめ各種の協会選抜チームによる国際試合で新しい年度の幕開けとなる。オープン化(2001年度)がもたらした現象ではあるが、それ以前の日本ラグビー界は国内のプレシーズンといえば7人制ラグビーの独壇場だった。日本協会機関誌が伝える戦後の7人制ラグビー復活のいきさつを再録した。原稿の執筆者は元日本協会副会長小林忠郎となっている。
 
 「戦後の7人制(Seven-A-Side)ラグビーが復活したのは昭和34(1959)年4月からである。今年20回を迎えて初めて秩父宮ラグビー場で記念大会を催したのである。
 昭和33年秋のなかば頃だったろうか、突然日本協会の奥村(竹之助)専務理事から連絡があってセブン・ア・サイドの日本大会をYC&AC(YokohamaCountry&AthleticClub―横浜外国人倶楽部)が主催して始めたい日本協会の協力を得たいと云ってきているので関東協会の賛否、主管協会としての協カ度を計って欲しいとのこと。
 早速、関東協会の態度を決め、日本協会の奥村さんと関東協会から小林、伊藤(参次)の2名が渋谷の文化会館でYCACのA.A.F.SHEARERさん達と会って、大綱を決めてスタートすることになった。主催YCAC、協賛日本ラグビーフットボール協会となり、日本協会は協賛金として5万円をYCACに支払うこと。昭和34年度に入った4月の第1日曜日に横浜根岸のYCACグラウンドで第1回の大会を開くこと。毎年YCACで続けていくこと。YCACチームの他に15チームを推薦招待し16チーム勝抜法とする。(中略)
 昭和46(1971)年度から主催を日本協会、後援をYCACとし、経費も両者で折半して行っている。今年は20回記念大会と云う特殊事情なので特に秩父宮ラグビー場を使用したが、来年から又(特別の事情のない限り)横浜のYCACのグラウンドで行い、YCACのメンバーがいろいろお世話をしてくれることになっている。
 さて今年は20回大会を記念したため特に日本代表を加え、更に香港代表を招待した。又大学チームはOBも入れて全とした事が異色である」(原文のまま)
 
写真・図表
秩父宮妃殿下をお迎えして第20回大会を祝う

 
 第20回記念大会の優勝は日本代表(監督横井久)となっているが、ここまでの歴代チャンピオンをみると、初代の優勝チーム八幡製鉄が第6回から第12回大会までの7連覇プラス2度の連続優勝を含めて12回の優勝を飾っている。変わったところでは日野自動車工業が第2、第5大会と2度の優勝を記録しているほか、警視庁チームが第19回大会の王座についているのが異色といえば異色。いまでは考えられないような初期の多彩な出場チーム、そして優勝チームに、15人制とはまた違ったセブンズ独特の楽しさ、おもしろさを映している。
 
 戦後の日本ラグビー界に親しまれてきたYC&ACセブンズは、スタートの時点から日本協会と密接に結びついてきた。あるときは日本協会が協賛であったり、またあるときからは日本協会が主催者となるなど、両者は表裏一体の関係で協力しあってきたといってもいいだろう。そして日本協会が1993(平成5)年にジャパンセブンズを新たに設けたときも、YC&ACセブンズの存在はゆるがなかった。日本協会との友好関係が崩れることもなく、2つの7人制大会は共存していく。YC&AC関係者たちは、ジャパンセブンズ大会の新設を、むしろ7人制ラグビーの普及にプラス効果と受け止めていたとも考えられる。
 
 そのジャパンセブンズは第2回大会の熊谷開催を経て、再び秩父宮ラグビー場に戻ってきた第3回大会を機に大きく変貌する。それまでの国内大会からギアを国際大会へと切り替え、大会そのものの雰囲気もがらりと一変した。軽快な音楽に乗ってグラウンドを一周する仮装行列…。グラウンドの外国人選手と、スタンドのファンが一体となった秩父宮ラグビー場はまさにラグビーのフェスティバル。拍手以外の応援をタブーとしてきた日本ラグビーにとっては、画期的な演出であり、メディアヘの大デモンストレーションでもあった。1996(平成8)年の第4回大会にいたっては英国の国営テレビBBCが取材にくるなど、会場の秩父宮ラグビー場は日本ラグビーの成長ぶりを世界へ伝える新たな情報発信の場になったともいえるだろう。
 
 外国の招待チームをみても第3回大会ではフィジーはじめニュージーランド、米国、カナダウェールズ香港韓国、マレーシア、台湾など9カ国。次ぎの第4回大会ではさらに南半球から豪州、西サモアトンガアルゼンチン、ヨーロッパからフランスも招待に応じるなど、参加国はワールドワイド化していった。なかでも人気を呼んだのは第4、第5、第6回とカップの決勝で、フィジー対オールブラックスの対決が続いたこと。結果はセブンの王者フィジーの3連覇を、オールブラックスが3度目の対決で阻止するなど、ジャパンセブンズが両者の対決で最高に盛り上がったのはいううまでもない。そして、国内の部で会場の注目を集めたのが、ちょうど来日中だったオックスフォード、ケンブリッジ両大学の特別参加。日本協会の要請で帰国を遅らせたうえでの出場に会場から大きな拍手が両チームに送られた。
 
 ジャパンセブンズは順調に日本ラグビーの春のイベントとして定着していくかにみられた2000(平成12)年の第8回大会のとき、再び転機が訪れる。この年度の12月からスタートしたIRB主催の「ワールドセブンズ・シリーズ」にジャパンセブンズが組み込まれたことで、第2回大会以来の国内大会へと逆戻り。翌2001(平成13)年の第9回大会ではセブンズの日本選手権と位置付けられたが、ジャパンセブンズの呼称で大会が開かれたのは2003(平成15)年度の第11会大会まで。翌2004(平成16)年は「YC&AC、JAPAN INVITATIONAL SEVENS」となり、今年度は「YC&AC JAPAN SEVENS」の大会名称で日本協会機関誌に報じられている。ジャパンセブンズは形のうえでは1959(昭和34)年のYC&ACセブンズがスタートした48年前に回帰したといえる。そういえば今年度のYC&ACセブンズは第48回大会だった。半世紀は目前である。