日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

日本ラグビーフットボール史

定期戦から選手権時代へ

Ⅰ 日本選手権がスタート

 日本選手権の対戦記録からは時の流れというか、日本ラグビーの移り変わりが映しだされていて興味がつきない。まず第1回選手権で関西の大学代表同志社の優勝について記すなら、日本ラグビー史のいう「西高東低を最初に演出した京大の偉業に次ぐ2度目の快挙」であり、また日本ラグビー発展の歩みと同志社の勝利は東西大学の交流を原点とする日本ラグビー65年の歴史と伝統を守り抜いた貴重な勝利ともいえるだろう。敗れた社会人ラグビー(この大会では近鉄)には酷かもしれないが、当時の風潮からみれば人気という点でまだまだ大学ラグビーが社会人のそれを凌いでいた。勢い協会関係者たちの思考が大学ラグビー中心に傾いていくのは当然の成り行きだったかもしれない。その現れのひとつが大会直前に大阪のスポーツマンクラブで開かれた「第1回日本選手権展望」と題する日本協会機関誌主催の座談会である。出席者は関東協会・小林忠郎、関西協会・宮原万寿、丹羽正、九州協会・平山新一の3地域協会代表だったが、座談会の結びで小林忠郎が「本質的には学生チームが日本の最強であるべきだと思います。ラグビー界にとっても、そうなってほしいものだと思います」と発言。関西協会代表の宮原万寿も「そうですよ。社会人チームに名を成さしめるということはありません」と応じるなど、いま考えれば関係者としては異例ともいうべきこれらの発言も、1960年代の日本ラグビー界では、とくに問題視されることもなく、ごく当たり前の発言として受け止められていたのだろう。それほど大学ラグビーの存在は大きかった。
 
 同志社の優勝ではじまった日本選手権ではあったが、1976(昭和51)年度の第13回選手権までは大学、社会人ほぼ互角。優勝回数でいえば大学6回に対し、社会人7回と数字のうえでは社会人が1回上回っており、2連覇の数も大学は早稲田の第8、9回連勝が1度あるだけ。対する社会人は第4、5回の近鉄、第10、11のリコーがそれぞれ連覇を記録している。もっとも社会人の2つの連覇を挟んだ中間にあたる1970(昭和45)年度からの3年間は、第7回が日体、つづく第8、9回は早稲田(前述)と大学勢が優位に立っているが、相手の社会人チームは、7連覇の偉業達成前の富士鉄釜石新日鉄釜石(八幡製鉄と合併による社名変更)であり、三菱自工京都という、まだ社会人ラグビーのトップグループとしては新顔的存在のチーム。実力の点では互角だったとしても、全国区での経験という意味では日体、早稲田に一日の長があった。
 
 ただ、大学勢が晴れの大舞台で互角に戦えたのもここまで。1977(昭和52)年度の日本選手権から社会人絶対優位の時代が展開する。いまもラグビーのオールドファンの間では語り草となっている第16回選手権(1979年)からはじまった新日鉄釜石の7連覇であるが、釜石の初優勝は2年前の第14回選手権。もし釜石がその翌年の1978(昭和53)年度の社会人大会決勝でトヨタ自動車に勝利していれば日本選手権連続出場となり、「釜石幻の9連覇」は実現していたかもしれない。その「ストップ・ザ・釜石」を残り2分の大詰めで決めたのがトヨタ自動車のFB田中伸典の逆転PG。日本協会朝日新聞社発刊の全国社会人大会50年史に「釜石の歴史を私のキックで変えた…」と題して、田中伸典がその後の再会で釜石の森重隆と交わした秘話ともいうベき内容を綴っている。その要旨を転載させていただく。
 
 「…残り2分。左中間40メートルほどのPGを得たんですが、正直いって、入れる自信はなかった。…蹴った直後、『だめだ』と観念しました。蹴り損ねで球の回転が悪かったんです。近づいてくるボールを見ていた森さんが『へにゃへにゃという感じで飛んできたからな』と後で言っているほどですから、とどかないと思っていたんでしょう。結局神風が吹いたんです。クロスバーをきわどく越えましたから。
 
 その後、何年かして森さんをトヨタに招く機会があったとき、あの人がふともらした言葉が忘れられません。『あれが入らなかったら、釜石は9連覇していたんだぞ』と。次の年からあの7連覇が始まったわけですから、釜石にすれば1年分損したという気持ちだったんでしょうね。残り時間があと10分もあれば確実に負けていたとおもいます。その意味で、釜石の歴史を私のキックで変えたのかといったような、妙な気概がありますね」(全国社会人大会50年史から)
 
 ところで、釜石7連覇のあと、1987(昭和62)年度優勝のトヨタ自動車を挟んで慶應と早稲田の伝統校が王座についている。慶應は初の選手権獲得、また早稲田は17年ぶり3度日のチャンピオンの座となるわけであるが、日本選手権で大学チームが優勝したのはこれが最後。1989(平成1)年度の第26回大会から神戸製鋼の7連覇へと、社会人絶対優勢の日本選手権時代へと移っていくが、ただ、指摘しておきたいのは、連覇の数こそ同じ「7」であっても新日鉄釜石神戸製鋼のそれには多くの点で違いがみられる。まず、第1点はメンバーの構成だろう。両チャンピオンチームの7連覇初年度のメンバーを併記した。参考資料としていただきたい
 
写真・図表
早稲田東芝を破って3度目の日本

 
新日鉄釜石 神戸製鋼 7連覇初年度のメンバー表

 
 同じ日本選手権7連覇の偉業を達成した新日鉄釜石神戸製鋼ではあるが、両チャンピオンのメンバー表を見て気付くのは、チームの構成が根本的に違う点であろう。新日鉄釜石は大学ラグビーの出身者がわずかに2人。あとは東北、北海道の高校出身者で固めている。日本選手権の歴史を紐解いても、このような異色のチャンピオンは新日鉄釜石をおいてほかにない。奇跡が生んだ王者といっても過言ではないだろう。選手、監督、そして副部長として7連覇の基礎を築いた市口順亮(京大OB)が社会人ラグビー50年史で語っている。
 
写真・図表
新日鉄釜石が同志社の挑戦を退ける

 
 「…高卒主体で、大卒はリーダーとして年に2、3人採用が方針だった。…会社側とチームが本気になって強化しはじめたのは、65年ぐらいから。…選手探しに、北海道、東北の高校をくまなくまわりましたね。おかげでプロップの石山や洞口、ロックの瀬川、FB谷藤ら本当に優秀な選手がはいってきてくれた。そうやって探し、育てた選手たちがV7を支える選手になり、日本代表にも選ばれた。密かな誇りですね。このチームにCTB森とSO松尾の二人が加わった。リーダーがそろって、闘う体制は完成した。V1の年はもう負ける気はしなかった。記憶に残っているのは、チームがそうなるまでですね」―と。(要旨)
 
 そして新日鉄釜石時代の終焉とともに3年間の時をおいて登場したのが神戸製鋼である。ジャージーの色こそ真紅と変わらなかったが、最も対照的だったのは、神戸製鋼が東西の大学ラグビー界を代表する選手たちでチームを固めたことである。高校出身でV1メンバーに名を連ねているのはプロップの山下ただひとり。FW7人、バックス7人すべて東西の大学ラグビー界で鍛え抜かれたスター軍団ではあったが、そのなかでも主力を形成するのが10人の同志社OBであった。FWの中山、林、大八木、杉本、武藤、バックスの萩本、菅野、平尾、細川、綾城は大学時代に同志社の黄金時代を築き上げた文字通りのスーパースターたちである。大学で先輩だった林、中山も含めた10人は不滅の大学選手権3連覇という金字塔を打ちたてたメンバーでもあったが、唯一の心残りは日本選手権で時の王者新日鉄に3度挑戦しながら、いずれも跳ね返されたことではないだろうか。その大学時代の口惜しい思いが神戸製鋼という新しいヒーローをつくりあげ、新日鉄釜石に並ぶ7連覇の偉業達成へと結びついたようにも考えられる。それにしても、高校出の優秀な素材を鍛えに鍛えて「鉄の軍団」を育てあげた東北の小さな町の新日鉄釜石。対照的にかつて3度にわたって涙を飲まされた大学のエリートたちが、後に神戸という超近代的な都市に再結集して新しい日本ラグビーの発信源となる。どうやら発祥いらい日本ラグビーの主導権を握り続けてきた大学ラグビーではあったが、日本選手権での異質の社会人チームが樹立した2つの7連覇によって、完全に盟主の座は社会人ラグビーへと交代した。第15回日本選手権といえば新日鉄釜石の7連覇が始まる前年度の大会ではあるが、この1978(昭和53)年発刊の日本協会機関誌2月号に日本協会理事小林忠郎が、早くも新しい時代の到来を暗示するような興味ある指摘を綴っている。以下はその要旨。
 
 「…ここ2、3年前から、社会人の覇者と大学の覇者との決戦(日本選手権)を止めろ、と言う声が起っている。完成されたプレーヤーを自由自在に補強(採用)できる会社チームと、未知数の者を鍛えながらチームを作っていく大学チームでは、力が違いすぎるのは当然、これではラグビーにならぬと言うわけ。その通りである。協会とて無関心ではない。然し一方、より強き者に挑み、自らを鍛え、自らの力をテストすること。これも又大切であろう。今年の明治のようにあれだけカの違う相手に真正面から堂々とテストしたこと、そして数万の観衆をうならせたファイトと好プレー。何となくこのカード、まだまだ続けて、国際試合のテストマッチの感じ方で進んでもよいのかなとしみじみ思う。…」
 
写真・図表
寬仁親王杯が親王殿下から神戸製鋼大西主将に授与

 
写真・図表
親王杯

 
 ここに国立競技場が1986(昭和61)年にまとめた「国立霞ヶ丘陸上競技場歴代有料入場券発売枚数ベスト10」がある。それによると
 ①1982・12・5 早明ラグビー 66999枚
 ②1985・1・15 ラグビー日本選手権(釜石-同志社)64636枚
 ③1984・11・23 早慶ラグビー 64001枚
 ④1977・9・14 サッカー・ペレ・サヨナラゲーム 61692枚
 ⑤1984・1・15 ラグビー日本選手権(釜石-同志社)60849枚
 ⑥1986・1・15 ラグビー日本選手権(トヨタ-慶應)59954枚
 ⑦1985・12・1 早明ラグビー 59731枚
 (8~10位はサッカー)となっている。
 
写真・図表
国立競技場に超満員の大観衆を集めた早明ラグビー

 
 このように1980年代のラグビーは大学と社会人の優勝チームが対決する日本選手権中止を求める声がある一方、上記の国立競技場入場者数統計でもわかるように、日本選手権の人気が日本ラグビーの黄金カードといわれた早明、早慶2つの伝統カードと肩を並べるまでになっている。小林忠郎が「まだまだ続けて…」というのも、こうした数字の裏付けがあったからだろう。ただ、大学ラグビーに郷愁をいだくファンの中止、あるいは改革論は、社会人チームの外国籍選手採用とともに大きな広がりをみせはじめた。そうしたファンの声に答えて出した日本協会の結論が1997(平成9)年度と翌1998(平成10)年度の2度にわたる開催新方式であり、当時の専務理事白井善三は新方式の実施にあたって改正のあらましを次のように述べている。
 
 「…昨年まで34年間続けられてきた伝統の日本選手権も、近年、社会人と学生との実力差が開きすぎて学生の勝利の可能性が少なくなってきました。特に『ラグビー日本一」を争う日本選手権としては、あまりにも大差のゲームとなり、勝敗というよりどこまで学生が挑戦できるかという興味に絞られていました。
 そこで、日本協会では現行方式の日本選手権を新たに見直すことになり、様々な角度から検討を続けました。検討にあたっては、根強い学生ラグビーファンの熱い要望、さらに学生にも挑戦の場が必要であるという大学関係者からの意見も考慮致しました。さらに、社会人のレベルアップに比べ、大学ラグビーがやや伸び悩んでいることを考え合わせ、日本ラグビーの強化のためにも、学生の社会人への挑戦の場を残すことで新日本選手権を開催致します」―と。
 
 新しい開催方式は社会人から上位3チーム、大学から上位2チームに出場権が与えられるが、そのうち社会人1位チームはシードされ、残る4チームによるトーナメントで勝ち上がってきたチームの挑戦を決勝戦でうけるというもの。この新方式最大の特色は社会人大会優勝チームを最優遇した点といえるだろう。この新方式の出場チームは社会人から東芝府中(1位)、サントリー(2位)、トヨタ自動車(3位)が、また大学からは明治(1位)、関東学院(2位)の5チームとなったが、東芝府中が決勝に勝ち上がってきたトヨタ自動車を35-11のスコアで破って2連勝、2度目の王座についている。
 
 さらに次の第36回日本選手権では出場チームが社会人、大学各選手権上位4チームと枠が広げられ、この方式は2000年度の第38回日本選手権まで続いたが、翌2001年度の第39回日本選手権では、出場枠を社会人4チーム、大学2チームと再び格差をつけたうえ、社会人大会の優勝、準優勝チームをシードする新たな開催方式がとられた。冬季オリンピック開催への協力がその理由で、この年度だけの特別措置。翌2002年度開催の第40回日本選手権では、出場資格を社会人、大学ともベスト4と、いったん2000年度の方式にもどしたが、この年度の日本選手権をさらに突き詰めて考えるなら日本ラグビーのアマチュア時代最後の日本選手権ともいえ、そのフィナーレを飾ったのが、なんと東日本7位から日本ラグビーの頂点を極めたNECである。マスコミはこのNECの快挙を「奇跡の日本一」と報道した。
 
 日本選手権に大きな転機をもたらしたのは2003(平成15)年度の大会。日本協会ではこの年度の選手権に先立ち、大会そのものの再検討を行った。その結果、一時は日本協会機関誌に「日本選手権は第40回大会で終了。2003年度の大会から名称がラグビージャパンカップと改称される」と報じられたが、第41回日本選手権の名称には変更なく、大会の実態そのものに大幅な改革が実施した。すなわち出場枠が従来の社会人4、大学4の8チームから一挙に22チームと拡大されたことである。出場22チームの有資格とはトップリーグ(1~8位)、トップリーグチャレンジシリーズ(1~6位)、全国大学選手権出場(1~6位)、全国地区対抗大学大会優勝チーム、全国クラブ選手権優勝チームと、日本ラグビーを構成する各分野の主要大会上位チーム、もしくは優勝チーム。そして大会期間も2月上旬から3月下旬のはじめにかけての6週間にわたる一大イベントヘと変貌をとげたが、選手権を終ってみて新たな問題点も浮かび上がってきた。
 
 それは国内シーズンの長期化である。この問題について専務理事真下昇はシーズン終了時の2003年度総括で「…大学チームは1月に選手権が終っているのに3月まで試合時期が引っ張られることになり、試験期間にもかかるという意見が出ています。社会人チームの選手にも健康面の問題が出てきました。…そのようなわけで来季に関しては国内シーズンは9月から2月(翌年)までとし、日本選手権も2月いっぱいで終るように日程調整したいと考えています。今年よりコンパクトになるわけですが、出場チームについては、クラブの王者や地域リーグの上位チームなど広げた間口を完全に閉ざすのではなく、日本選手権へつながる道は残していきたいと考えています…」と、日本選手権の縮小構想について触れている。
 
 なるほど、2004年度の第42回日本選手権では出場が8チームにしぼられ、翌2005年度の第43回日本選手権でも引き続き8チーム案は継続されたが、公約通りトップリーグの下部組織であるチャレンジシリーズとクラブ代表の出場は、ともに確保された。結局、削減の対象となったのは、トップリーグ4(5位~8位)、大学4(3位~6位)、チャレンジシリーズ5(2位=6位)、地区大学1(1位)の14チーム。また開催期間も第42回選手権(2004年度)が2月5日~2月27日、第43回(2005年度)が2月4日~2月26日、第44回(2006年度)が2月3日~2月25日と戦前は大学、戦後になってようやく社会人ラグビーの成長で日本ラグビーは2本の柱で発展してきた。
 
 しかし、ラグビー界の底辺拡大、普及という課題を、日本代表の強化とともに緊急のテーマとする21世紀の日本協会としては、3本目の柱となりうる可能性を秘めたクラブ・ラグビーは魅力のある分野である。もちろん大学、あるいはトップリーグに並ぶ柱に育て上げるまでには、努力と時間が必要となるのはいうまでもないが、現実には社会人や大学、そして高校ラグビーのOBたちで構成する地域のクラブチームは確実に広がりをみせている。その中でクラブラグビーの代表チームを日本選手権出場8チームのひとつとした。