日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

日本ラグビーフットボール史

敗戦の焦土から復興へ

Ⅰ 国敗れて「ラグビー」あり

【35周年記念祭】
 日本協会の創設35周年記念祭が1963(昭和38)年9月24日の秋分の日、秋晴れの秩父宮ラグビー場で行われた。日本協会にとっては発足してから初めて開く記念の行事ではあったが、時の会長、香山蕃は記念史の序文で、その意義を「…記念ということは、ただ過去を語り、なつかしむことではなく、過去を顧み、反省することによって、未来への飛躍の跳躍台に資することでなければなりません…。タイム・アップのホイッスルではなく、まさにキック・オフのホイッスルと理解すべきであります」と記している。
 
写真・図表
日本協会創立35周年記念祭から。中央は秩父宮妃殿下。

 
 式典には文部大臣灘尾弘吉、体協会長石井光次郎から祝辞もよせられたが、簡素な式次第にもかかわらず、記念祭を盛り上げたのは物故者の慰霊祭であった。日本協会評議員本領信次郎が慰霊の辞を述べ、遺族を代表して第2代会長田辺九万三の孫にあたる理事正野虎雄の令嬢雅子の手で弔魂碑の除幕のあと、会長香山蕃の弔魂の言葉、3地域協会会長の献花とつづいていく。式典がクライマックスに達したのは、総裁秩父宮妃勢津子さまのご拝霊、そして初代会長高木喜寬未亡人と子息秀寛の拝礼にひきつづき行われた表彰式。すでに故人となられた田中銀之助、高木喜寬、田辺九万三、杉本貞一、橋本寿三郎の5人の先輩には、遺族を通して感謝と表彰の意を伝えるとともに、慶應義塾蹴球部など日本ラグビーの発展に功績のあった12チーム(別掲)には表彰状と記念品を、また協力団体として4法人(別掲)にも感謝状と記念品がそれぞれ贈られ、日本協会には懸案となっていた最初の節目を祝う式典はとどこうりなく終わった。
 
 「表彰された12チーム」
☆慶應義塾体育会蹴球部
 明治32年秋、日本に初めてラグビーを移植して今日に至る60有余年間、終始ラグビーの振興と大正14年我が国初の海外遠征を敢行された功績
☆第三高等学校蹴球部
 明治43年の創立と共に斯界の啓発に尽された功績
☆同志社大学ラグビー部
 明治44年の創立と共に斯界の啓発に尽された功績
☆慶應義塾体育会普通部蹴球部(現慶應義塾高等学校)
 我が国中等学校ラグビーの草分として、明治30年代から中学校ラグビー界の発展に寄与された功績
☆同志社中学ラグビー部(現同志社高等学校)
 明治44年創立、爾来中学校ラグビーの普及発展に寄与された功績
☆京都府立第一中学校ラグビー部(現洛北高等学校)
 明治44年創立、中学校ラグビー発展に貢献された功績
☆京都市立第一商業学校ラグビー部(現西京商業高等学校)
 大正4年創立、中学校ラグビー発展に貢献された功績
☆神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ(KR&AC)
 関西に三高、同志社のラグビーチームが生まれるや、この草創期の啓発に尽された功績
☆横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)
 慶應を始め我が国の若いチームを指導育成して今日の隆盛に導かれた功績
早稲田大学豪州遠征チーム
 昭和2年豪州大陸に遠征された壮挙はその後の我が国ラグビープレーに多大な貢献をされた功績
☆第一回全日本カナダ遠征チーム
 昭和5年全日本代表チームとしてカナダに遠征、優秀な成果をあげると共に日加親善に寄与された功績
八幡製鉄所ラグビー部
 社会人ラグビー界の雄として香港カナダ、豪州、ニュージーランド等に遠征、優秀なる成果と国際親善に寄与された功績
 
 「感謝・表彰された法人」
▽毎日新聞社
朝日新聞
日本放送協会
▽近畿日本鉄道株式会社
(日本ラグビー史から)
 
 ところで、日本協会の創設記念祭がなぜ30周年ではなく35周年だったのか、また35周年記念祭としながら、なぜ2年遅れの1963(昭和38)年9月24日に行われたのかの2点について疑問を抱かれるむきがあろうかとも思われる。たしかに歴史の節目という観点からいえば、35周年より30周年のほうがより自然な選択であり、同じように35周年記念祭が37年目に実施された点についても首を傾げたくなる点ではあるが、日本協会にはその疑問に答える史料なり、文書は見当たらない。しかし、30周年にあたる1956(昭和31)年前後から35周年の1961(昭和36)年にかけての日本協会は秩父宮ラグビー場の国立移管問題、体協脱退から復帰問題と、有史以来の難題を抱える苦難の時代でもあった。そのような激動の渦中にあって30周年を、あるいは35周年を祝いたくても祝えなかったというのが実情であり、かつまた最も自然な受け取り方といえる。
 
 なお、日本協会は35周年記念祭の開催とともに日本ラグビーの歴史を綴る「日本ラグビー史」を初めて編纂、発行した。明治、大正、昭和の3代にわたる日本ラグビーの歩みを、少ない史料の中からみごとに描きだした全編374ページの記述は単なる歴史書というより、貴重な事実を掘り起こしたドキュメンタリーと評していい。ラグビー関係者必読の年史である。
【50周年記念祭】
 
写真・図表
総裁秩父宮妃殿下からお言葉を

 
 日本協会が創設されて半世紀が過ぎた。1977(昭和52)年3月19日、国立競技場で開かれた日本協会創立50周年記念祭は、式典の部、オックスフォード大vs.新日鉄釜石の親善試合の部、そして祝賀パーティーの部で最後を締め括る豪華な構成。祭典への出席者約220人は、ゲスト、ラグビー関係の別なく心から「50歳」を迎えた日本協会の成長を祝い、そして親善試合を楽しんだ。
 
 式典は日本ラグビーの基礎を固め、普及発展に尽瘁(じんすい)された先人への感謝、戦没者への鎮魂の願いをこめた黙祷ではじまった。セレモニーは形通り日本協会会長椎名時四郎の式辞。つづいて総裁秩父宮妃勢津子さまから「故秩父宮さまと日本ラグビー、国際交流の発展、日本のラグビーを今日の隆盛に導いた先達たちの労をねぎらうお心遣い、そしてラグビー精神の正道を守ってさらなる発展を期待します」とのお言葉をいただいた。いつもながらの日本ラグビーへの励ましと、温かいお心遣いにはラグビー関係者もただただ感激とともに、センテナリーへいっそうの努力をそれぞれの心にしっかりと刻み込んだことだろう。
 
 このあと、VIPの祝辞はつづくが、式典出席のラグビー関係者に二重の感激をもたらしたのが、参議院の本会議開催中にもかかわず駆けつけた日本体協会長河野謙三の挨拶だった。
 「…すべての式典の意義は過去を偲び、先輩に思いをいたすことにある。…故香山前会長のアマチュア精神に撤し、常にその精神を力説され、その精神を貫かれた立派さ」と称えたうえ「すべてのスポーツ界は礼節を尊ぶラグビーがアマチュア精神のリーダー格であってほしい」と結んだ祝辞に会場から万雷の拍手が送られた。秩父宮ラグビー場の国立移管、体協脱退…と純粋のアマチュアリズムを掲げて一歩も譲らなかった故人の理解者が、ここにもあったということだろう。
 
写真・図表
日本協会50周年記念祭で祝辞を述べるジ・ユニオンのリチャード・E・ジープス会長

 
 式典最後のスピーカーとして登壇したのは、ラグビー創始国イングランド協会(The Union)会長リチャード・イー・ジープスである。「…50周年を契機に次の50年で、より多くのグラウンド、より多くのチームをつくること。協会関係者がこの2点に努力を怠らなければ日本ラグビーも世界の一流への仲間入りができるだろう」(要旨)と、多分に外交辞令的な祝辞をちょうだいはしたが、ひょっとして1968(昭和43)年のNZ遠征で日本代表オールブラックス・ジュニアを破ったこと、あるいは1971(昭和46)年に初来日のイングランド代表日本代表と接戦を演じたことなど、日本ラグビーの成長を印象づける古い記憶が会長の心の片隅にあったのだろうか。それはともかく、協会創立80周年を迎えたいま、改めてミスター・ジープスの「一流国に肩を並べる努力の必要性」を説いたこの言葉には、日本ラグビーへの強い激励の意味が込められていたようにも伝わってくる。次の50年まで残る年数はあと20年。日本ラグビーはどんな姿、形でセンテナリーという大きな節目を迎えられるだろうか。日本協会にとって残された時間はひとつの試練でもある。
 
日本協会創立50周年記念招待試合】(3月19日、国立競技場)
オックスフォード大vs.新日鉄釜石 対戦記録表

 
〈短評〉数字のうえでは6点差。釜石にも勝つチャンスがなかったわけではないが、前半33分、38分、後半1分つかんだPG、DGの得点機をはずしたのが響いた。
 
日本ラグビーの育成・発展の功労者と法人表彰】
 故田中銀之助 故高木喜寬
 故田辺九万三 故橋本寿三郎
 故杉本貞一  故奥村竹之助
 故川津尚彦  故香山蕃
 故湯川正夫  故杉原雄吉
 故目良篤   故葛西泰二郎
 故脇肇
 横山通夫   灘波経一
 西野綱三   清瀬三郎
 巌栄一
 毎日新聞社  朝日新聞
 日本放送協会 近畿日本鉄道
 国立競技場  天理教教会本部