港区/デジタル版 港区のあゆみ

新修港区史

第一編

第五章 近世

第六節 幕末史跡と港区

(一) 外国公館が置かれた寺院等

(2)光林寺(南麻布四丁目一一―二五)

【通訳ヒュースケン】 光林寺にはアメリカ公使ハリスの通訳として日本で活躍したヒュースケンと、同じくイギリス総領事館付の日本人通訳伝吉の墓がある。
 ヒュースケンについて少し紹介しよう。ヒュースケンは、一八三二年オランダのアムステルダムに生まれた。父はアムステルダムの商人で、息子のヘンリー・ヒュースケンはオランダ南部のブラバンド県の学校に入ったが、一五歳の時父親のもとで商人になるつもりで、アムステルダムに帰った。しかし、まもなく父は亡くなり、病弱の母親をかかえたヒュースケンは、人生の転機を求めてアメリカに移住した。ニューヨークに渡ったヒュースケンは転々と職業を変えたが、収入も安定せず志を得ることができなかった。だが、ヒュースケンには語学の才能があり、母国語のオランダ語、英語さらにはフランス語、ドイツ語などに堪能であった。
 ヒュースケンは、日本に赴任するハリスが英語とオランダ語のできる通訳を求めていることを知った。周知のように鎖国の間、長崎の出島において交易を許されていたのは、中国とオランダだけであり、日本は蘭学を主としていたから、新たな国交を求めたヨーロッパ諸国は、日本にたいしてオランダ語を公用語としなければならなかったのである。応募して採用されたヒュースケンは、一八五五年十月二十五日、ニューヨークを出発、マデイラ島のフインシャル、アセンション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島のガルに寄港し、ペナンで先まわりをして待っていたハリスと対面し、同じ船で二人はシンガポール、バンコク、香港、広東、マカオを経て、安政三年(一八五六)七月二十一日下田に到着したのである。
 以後、ヒュースケンはハリスのそばにあって日米間の外交折衝、とくに日米修好通商条約の締結交渉に活躍し、また、イギリスのエルジン公使を助けて日英修好通商条約の調印にも協力し、その手腕を発揮した。ヒュースケンは五〇歳のハリスに対して来日した時が二四歳の若さであり、しかもハリスの表現をかりれば「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことはあまり気にしない」のんきな性格の男であった。
 日米・日英両修好通商条約の調印に協力したヒュースケンは、プロシアのオイレンベルク公使に依頼されて、日普修好通商条約の通訳を担当することになり、毎日のように麻布からプロシア公使の宿所であり協議の会場でもあった赤羽接遇所に馬で通っていた。その帰り道、すなわち万延元年(一八六一)十二月五日、攘夷派の浪士に襲われて負傷の後死亡したのである。この模様についてはハリスが次のような詳細な報告書を国務省に送っている。
 
【ヒュースケン遭難のハリス報告書】  「心重いことながら、当代表部の有能かつ忠実なる通訳、ヘンリー・C・J・ヒュースケン氏の死去を報告せねばならない。
  今月十五日の夜、九時頃、ヒュースケン氏はプロシア代表部から帰宅の途上にあった。三名の騎馬の役人と、四名の徒士が提灯をさげて随行していた。騎馬の役人の一名はヒュースケン氏の前に立ち、他の二名はすぐ後に続いていた。こうして進んでいくうちに、一行はとつぜん両側から攻撃された。役人達の馬が刺突され、斬りつけられた。提灯は消えヒュースケン氏は両脇腹に負傷した。彼は馬を全力疾走させ、二百ヤードほど走った頃、大声をあげて役人たちを呼び、負傷して死にそうだと言ってから落馬した。暗殺者は七名で、ただちに逃げ去り、難なく暗夜の街に隠れてしまった。
  ヒュースケン氏は、九時半ごろ代表部へ運ばれてきた。ただちにプロシアとイギリスの代表部から外科医の応援を求め、医術と同情が許す限りあらゆる手当を施したが、すべては空しく、致命傷だったので、十六日朝零時三十分、死亡した。
  別紙第一号としてプロシア代表部外科医ルシウス氏の診断書を同封する。
  小栗豊後守が直ちに見舞にきて、この悲劇的事件に対する恐怖の念を表明し、私にとっての重大な損失について慰めを述べ、特別警察に殺害者を探索させるよう、あらゆる方面に命令が下されていると語った。また暗殺の報告は、外国事務相にも届けられているといった。
  十六日朝七時、シンメ〔新見〕豊前守〔正興〕、村垣淡路守〔範忠〕と小栗豊後守〔忠順〕が来訪し、外国事務相の弔辞を伝え、政府は百方手をつくして、この恐るべき犯罪をおこなった者を逮捕し、処罰するつもりだといった。また、何なりと希望があればお力になりたいともいった。
  葬儀は今月十八日におこなわれたが、会葬者は次のとおりであった。
   一番 シンメ〔新見〕豊前守
      村垣淡路守
      小栗豊後守
      高井丹波守〔道致〕
      滝川播磨守〔具知〕
    各人長い供廻りと護衛がついた。
   二番 アメリカ・イギリス・フランス・プロシアの弔旗、プロシアの水兵が奉戴し、プロシアの水兵六
      名が護衛についた。
   三番 プロシアフリゲート艦アルコナの軍楽隊。
   四番 オランダおよびプロシア水兵の護衛。
   五番 日本教区長アベ・ジラール師と外科医ルシウス氏。
   六番 遺体。アメリカ国旗で包み、オランダ水兵八名で担う。
   七番 喪主オランダ総領事ド・ウイト氏、ハリス氏。
   八番 オールコック氏、ド・ベルクール氏、オイレンベルク伯爵、イギリス・フランス・プロシア各国
      公使。
   九番 各国領事。
   十番 各国代表部随員
   十一番 オランダおよびプロシア軍士官
  忠実なる合衆国官吏の遺体に当然の敬意を表するため、とりうる方法はすべておこなったが、ただ葬具が非常に限られていたのは残念であった。
  葬列が出発するとき、シンメ豊前守〔新見正興〕は、私が参加しないことを希望した。私が襲撃されるかもしれないと考えたのである。
  私は、参列するのは義務であると考えるし、どんな危険があっても参列せねばならないのだと答え、またその際私の身に何か異変が起これば、貴政府の責任とみなす旨を警告した。私は他の外交官たちにこの話を伝え、彼らもみな私とともに参列する決心をした。
  墓地〔麻布光林寺・代表部から一マイルほどのところにある〕に行く途中も、帰るときも、何一つ厄介なことは起こらなかったし、悪意のしるしも認められなかった。大勢の人々が軍楽隊の演奏とただならぬみものに惹かれて集まってきたが、みな静粛で秩序があった。
  この葬儀に際して、プロシア使節オイレンベルク伯爵および同代表部一同からひとかたならぬお世話を受けた。また、とくにハイネ氏には葬儀万端をとりしきっていただいた。
  ヒュースケン氏殺害の動機となるような特別の事情は思い当たらない。彼は親切で愛想のいい性質である。日本人にたいして暴力をふるったことはない。彼らの言葉を話すことによって広く人気をあつめてもいたようである。だいぶ以前から、市中にならず者の集団があって、刃傷をこととし、もっとも多く人命を奪った者が頭領にたてられていると聞いていた。おそらくは、この一味のうちの誰かが外国人の暗殺によって名前を売りたいと思ったので、夜間不用意な外出によって、その種のことをなすのに格好の機会を提供しているヒュースケン氏がねらわれたのであろう。
  はじめて当地にきたとき、夜間の外出は危険であると当局から聞かされていた。必要がなければ彼ら自身も外出しないし、する場合には、つねに大勢の供を連れ、多数の提灯を用意するのである。
  私はつねに、ヒュースケン氏が危険を冒していることを警告し、そのようにして身をさらさないことを願っていた。
  彼は四カ月以上も前から、ほとんど毎夜のようにプロシア代表部を訪問し、夜八時から十一時ごろ帰宅する習慣であった。この長期間の規則正しい外出が不慮の死を招くことになったのではあるまいか。
  この突然の、恐るべき災難で、私は深く悩んでいる。ヒュースケン氏は五年以上にわたって私とともに行動してきた。私の下田における長い孤独の伴侶であった
  われわれの関係は、主人と雇人というより、むしろ親子のようなものであった。(青木枝朗訳『ヒュースケン〝日本日記〟』一九七一年・校倉書房刊)
 
 手厚く葬られたヒュースケンの墓石には、十字架の下に次のように記されている。
 
Sacred to the Memory of Henry C.J. Heusken, Interpreter to the American Legation in Japan.
Born at Amsterdam, January 20, 1832. Died at Yedo January, 16, 1861.
 
 幕府はヒュースケン殺害事件の賠償金として洋銀四〇〇〇ドル、オランダにいる母の扶助料として六〇〇〇ドルを支払った。在日各外交団の態度は強硬だったが、ハリスは幕府の苦しい状況を察して穏便な措置をとり、事件は比較的軽くかたづいたのである。
【通訳伝吉】 ヒュースケンの墓の南側に通訳伝吉の墓がある。オールコックの『大君の都』によると、伝吉(ダンキルチ)は短気で高慢で、大名の中間(ちゅうげん)たちとよくけんかをし、長い間国外を流浪し、日本から鎖国時代にあっては国外追放の憂目にあい、アメリカと清国で生活をおくっていたということが記されているが、イギリス総領事館付きの通訳として働いている時、安政七年一月七日(一八六〇年一月二十九日)イギリス仮総領事館の前で、日本人により殺害されたのである。この遺体はオールコックと外国奉行の好意によって光林寺に葬られている。