港区/デジタル版 港区のあゆみ

新修港区史

第一編

第五章 近世

第三節 住民構成とその背景――町方の構成――

(二) 地域と商業――「江戸商人名前カード」から

 本芝を過ぎると、東海道は芝⑪の田町へと続く。古くは荏原郡上高縄村に属し、その田畑のなかにあったため、田町の名を残すが、寛文二年(一六六二)に一時上高輪町と称し、その後、田町として独立した。二丁目と三丁目の境にある紅葉川は、古くは汐入の場所で御揚場として小船の乗込みもできたところである。三、四丁目の間は、いわゆる札之辻と称し、三田寺町や四国町、赤羽橋へと通じる道路の入口となる。ここに大高札が立っていたのは天和二年(一六八二)までで、後に芝車町へ移転するが、元札之辻として城南地域でも主要な交錯点となった。さらに東側海手の木戸際に空地の物揚場があり、そこに棒職人が居住していたため、棒屋河岸の名を残す。また、米問屋が多いのも海手の揚場を利用したことによるものと思われ、ここから武家や寺社の多い後背地へ舂米屋を通じて供給したのであろう。その点は武家や寺社、問屋などに奉公人を周旋する人宿が比較的多いことからも推測できる。その他、神明社界隈ほどではないが、東海道筋には、土産物店や料理店もけっこうみられ、この辺から江戸市中も城南の端(はず)れの様子をみせはじめる。なお、当地には毎年七月十三日の明け六ツから五ツまで草市が催されていた。
【芝車町界隈 小屋掛け小売り商人】 芝⑬の車町はもともと牛町と称した。商売のための京上りや東下り、お伊勢参りの旅人など、車町は彼らの送迎場として大いに繁昌した。そのために、田町四丁目の三辻にあった御高札も天和二年にこの海手東側に移され、正徳元年(一七一一)には、さらに西側に移されている。また、当地には下馬札も建てられた。『御府内備考』によれば、その当時、この町には一四二疋前後の牛がいたというし、道沿いには、牛車や商売荷物を置くほどの往来広場もあったという。また海岸には石垣が積まれ町方揚場が設けられていた。さらに、大木戸から車町を経て、高輪へと通じる東海道の町並みは、すべて山側に並ぶ片側町で、海側はそのまま海浜に面した。海浜のこの地は、風光明媚のため、毎年三月一日から十月晦日(みそか)まで、この地域一帯には葮簀張(よしずばり)の小屋掛け見世が許され、いわゆる腰かけ水茶屋が、品川まで蜿々(えんえん)と立ち並んだ。とくに夏期には庶民の憩い集う涼場として人気があり、七月二十六日の「二十六夜待ち」には大勢の人出でちょっとした盛り場の雑踏の観さえあった。このように旅人や人馬などの往来の激しいこの地域は、地勢的な限定もあって、店構えをもつ商人よりも小屋掛け見世で渡世する小売商人の活躍する場となった、前掲の表32に会席即席料理店やそば屋が多く見られるのもそのひとつの証となろう。

海岸に並ぶ葭簀張りの見世や茶屋 『江戸名所図会』より。

 城南地域の東海道筋の町並みは、高輪に至って一応区切られるが、東海道は品川宿からさらに西へ続く。中町には町方揚場のほかに、渡舟場もあって正徳ごろ(一七一一~)から深川の船持ちが毎日旅人を乗せていたとのことで、城東地域からの海上の交通もあったようである。城南地域もこの辺はすでに市中の縁辺部から郊外へと広がるところで、台地側には下高輪村、白銀村、今里村など在方の村々が混在する。背後の武家地もほとんどが大名の下屋敷や抱屋敷であり、東海道筋の町場を除いて周辺は、緑の田畑に囲まれた田園の景観をもちはじめる。以上、芝口から高輪にかけて当時の幹線道路である東海道の町並みに沿って、その商業的な特徴をみた。次に、金杉川と新堀川の水上の通路に沿って、さらに城南の町々の内奥に入って、その商業的な特色をみよう。
【桜田界隈】 まず、金杉川には幸橋御門外から新(あたら)シ橋の間に、外桜田の町々が整然と並ぶ。八つの町々の成立は古く、家康入国時といわれる。そのうち鍛冶町はもともと幕府の御鍛冶所の役地があったところで、鍛冶職が多く住んだという。また、兼房町には松平弾正屋敷裏に先祖の但馬守の名をとった但馬長屋、伏見町には御能役者高安彦太郎の持家になる高安長屋と後藤長屋とがあった。いったいに町はずれの角地には、町内の家主が交代で勤める自身番がある。いわば町角の交番の機能をもち、また、町内寄合いの場所ともなった。桜田では鍛冶町と和泉町が持ち合いであるほか、各町にそれぞれの自身番があった。とくに兼房町と備前町の自身番は、いずれも商売屋とひと棟続きになっており、そこではおそらく日用雑貨類が小売りされたものと思われる。
【人宿と六組飛脚問屋】 この古い歴史をもつ桜田の町々には芝界隈に次いで問屋の数が多い。当地に目立つ商業は何よりも人宿と六組飛脚問屋の存在である。すでにのべたように、両者はいわば武家御用の人足請負人、口入屋としての性格をもつ業種でその意味では武家に依存する商業といえる。桜田地域は、後背地に大名から旗本・御家人まで、多数の武家屋敷や寺社地をもつ古町である。と同時に、東海道にも近く、さらに金杉川沿いに、あるいは愛宕下から西久保、飯倉の町々を抜けて青山の相模大山道へと通じる位置にある。このような地の利は、武家の需要に応える人宿や六組飛脚問屋の営業に有利であったと思われる。そしてこの辺は在方農村から出奔して奉公先をさがす農民や都市の無職者が多勢たむろするところとなった。
【赤坂界隈】 金杉川は、虎の御門を境に溜池となり、沿岸は大小の大名屋敷が並び、その先で赤坂田町、伝馬町界隈(赤坂①②③)に至る。赤坂御門外の広小路が表伝馬町となるが、喰違いから御門までの弁慶堀三〇〇間余では御用蓮葉がとれた。またこの表伝馬町の明地矢来際に元禄十年(一六九七)から一〇軒の床店が開業しており、主に町に集散する伝馬人足を顧客にしたものと思われる。裏伝馬町には古着屋が軒を並べたといい、これも同様の顧客をもったと思われる。また、隣接して定火消屋敷のあったことも、これらの業種には有利であったといえよう。
赤坂田町】 成立が比較的古い赤坂田町の溜池端の明地には、宝暦十年(一七六〇)に伝馬町との共用になる紺屋・合羽屋の物干場が設けられている。事実、別表からも赤坂一帯には紺屋の存在が目立つ。多量の水と広い空間を必要とする紺屋にとって、溜池端の町々は紺屋・合羽屋にとって格好の立地条件であったといえよう。また、田町三、四丁目にかけて文化十年(一八一七)から床店が許されていた。さらに、五丁目には低廉で庶民相手という意味で、麦飯岡場所と俗称する遊女屋があり、当時大いに人気を呼んだという。
【赤坂伝馬町】 表30を見ると、赤坂周辺には舂米屋と炭薪仲買が多数を占めているほか、町場の特色として両替屋が多い。人宿の多いことも、周辺に武家地を擁する立地から首肯できる。また、赤坂①の伝馬町界隈に六組飛脚問屋が多いのは、おそらく営業のうえで何らかの形で同類の業種でもある伝馬飛脚と関連があったものと予想される。このほか、各地から多くの人間が集散する伝馬町周辺には、即席料理店、御菓子所、うなぎ屋、生蕎麦、うどん屋などの飲食店が軒を並べている。また、隣接して紀州藩上屋敷があったことで『独案内』には「紀州御用御筆師 小法師兵夫」なる者の広告を見る。このように大名など武家に帰属して、その屋敷の近隣周辺に居住する商人の例は、ほかにもしばしば見出せる。また、伝馬町は何よりも交通の至便な位置にあることが条件となる。当地域の青山大通りは、赤坂御門から青山南町へ、さらに渋谷村を通過する矢倉沢街道、大山道へと結び、武蔵国と相模国の農村地帯への往来の要であった。この街道の起点ともなる赤坂界隈には、別表にも表われない商業的な特徴があったのではなかろうか。
【青山界隈】 そして、青山①②③の町屋は、この相州矢倉沢大山道に沿ったところに並ぶ。ただ、御炉路町と権田原は街道からやや離れ、また、鮫河橋一帯は紀州藩上屋敷の西方に位置する。この青山一帯は天正十九年(一五九二)に青山常陸介忠成が宅地として賜った広大な土地であった。その後、寛文元年(一六六一)に幕府は御手大工三五人へ拝領町屋敷を与えて御手大工町を起こし、さらに五十人町は天和三年(一六八三)に御作事方普請同心の拝領町屋として起こしたものである。赤坂方面から街道に沿って次第に町屋が形成されてきたが、久保町や原宿町などは、むしろ百姓町屋としての成立である。市中から郊外の農村部へと繋がる街道筋は、人馬が往来するのみで、際立った商業的な特徴をもつ町場としては、まだまだ未発達の観がある。また、街道周辺の武家地も比較的小身な旗本や御家人の居宅が混在し、その屋敷も狭く細長いいわゆる短冊屋敷が目立つ。浅河町を俗に傘町と呼称するのも、これら薄給の御家人たちの内職、手間稼ぎとして古傘の張り替えが盛んであったことに由来する。
【新堀川と河岸場】 次に、城南の中央部を流れる新堀川には下流の東海道の金杉橋から始まり将監橋、赤羽橋(三田ノ橋)と橋が架り、さらに上流に向かって中の橋(豆穴橋)、そして白金御殿への舟入口として一ノ橋があり、ここで南へ曲がる。流れはさらに二ノ橋(間部橋)、三ノ橋(肥後橋)を経て西に曲がり、四ノ橋(相模殿橋、御薬園橋)へと続き、天現寺橋で桜川と合流、渋谷方面へと上る。この新堀川は元禄十二年(一六九九)に完成しており、上流を渋谷川あるいは古川、下流を赤羽川、金杉川と称するが、全体を通じて赤羽川ともいう。すでに見たように、新堀川にはいくつかの河岸場があり、水上の道路として城南地域の運輸交通の要となった。先の金杉橋際の北金杉河岸と南金杉河岸のほか、薩摩河岸と俗称する新堀河岸、赤羽橋際の赤羽河岸、そして、中ノ橋先の新門前河岸、さらに三ノ橋先には竜源寺前物揚場などの河岸場が沿岸に並んだ。
 金杉橋、将監橋周辺については、既述したとおりで、次の赤羽橋の東南に芝⑫の松本町があり、中ノ橋から一ノ橋の沿岸にその他の代地町が並ぶ。赤羽橋を渡る道を西方に向かうと、三田①の町々を通り、三ツ俣で一方は東海道の札之辻へ、他方はさらに聖坂を経て、三田③の三田寺町から伊皿子、二本榎の門前町屋を通過して品川宿へと抜ける。この台地の道は、赤羽橋から逆方向へは、まず飯倉①②の町屋に至り、西久保四辻から、そのまま真っ直ぐには、西久保から愛宕下を通過して汐留川の幸橋に至る。すなわち、この道は汐留から城南の台地町を経て品川へ抜ける東海道の脇往還でもある。また、四辻から榎坂を経る飯倉道は、麻布⑤の門前町を通過して青山の大通りへとつながる。このように赤羽橋を通過する道路は、品川から赤坂、青山まで城南の門前町や住宅街を斜に横断する主要な往来ということができる。
【飯倉界隈】 この道沿いの飯倉三、四丁目には明和・安永期(一七六四~八〇)ごろまで土器作りの職人が多く住み、土器(かわらけ)町とも俗称する。四辻を中心に七月十二日には、草市が開かれ、そこはこの一帯の中心地でもある。五丁目が赤羽橋際となり、河岸通りには肴商人が毎早朝ほんのいっ時商い見世をひらくため、赤羽ちょろ河岸の名を残す。飯倉も西久保も、周辺は増上寺、天徳寺、西久保八幡などの寺社地のほか、大小の大名や旗本・御家人の屋敷が密集しており、町々はこれら住宅街の間に混在している。別表からは際立った商業的な特徴は見出しにくいが、西久保・飯倉①には人宿、六組飛脚問屋が多く、武家との関係がうかがえる。飯倉①はさらに業種の幅が広い。西久保一帯、飯倉には、小売商人や飲食店の数も多く、住宅街ながらある程度繁華な商店街が散在していたものと思われる。
【新堀川沿いの町々】 さらに新堀川沿いに町屋をみると、この橋と三ノ橋の間に三田③のうちの古川町があり、三ノ橋の先、上流に向かって西に右折する辺に麻布⑦の永松町、四ノ橋近くに田嶋町、その対岸に本村町の町屋が並ぶ。そして、新堀川は白金村、広尾原をぬって上流の渋谷へと至る。永松町に隣接して竜源寺河岸があったほかには、目立った河岸地はないが、武家地に接する岸辺にはおそらく自家専用の揚場が設けられていたであろうし、町屋の場合も地勢の可能な限り非公認ながら大小の河岸があったと考えられる。田島町は真っ直ぐ三田魚籃坂を経て、さらに伊皿子坂を下り、芝車町において東海道に結ぶ位置にあるが、後背地には大小の武家地が密集し、それを抜けるとすでに白銀周辺の田園風景となる。そして、白金台町辺で、二本榎を起点とする中原道と結ぶ。白金の町々は、この中原道を挾んで並ぶが、この街道は目黒不動への参詣道として知られるばかりでなく、武蔵国や相模国の在方(ざいかた)農村とをつなぐ重要な往来でもあった。
 別表からだけでは、これらの町屋の経済的な特徴を見出し難いが、麻布桜田町には人宿もあり、なお、町方として武家との接触をもつような業種をみる。一方、白金においてはいわば在方と町方の接点の位置にあり、米問屋をはじめ炭薪問屋、炭薪仲買が多く住み、業種の数もずっと少なくなっている。すでに周辺は緑の田園の香りがする田舎の様相をもつ。