多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧東條村

牛尾(うしのお)

路傍の小祠・石宮など

 道祖神 街道沿いにいくつか立てられている。字浅間山一〇三一番の潮神社下の県道沿いに三〇センチほどの石宮があって、神名などの刻字はないが、供えられた小石から道祖神と知れる。字高野下の旧道にあったものを移したといわれている。
 字腰巻一五三番にあるものは、牛尾一帯の開発始めの地と伝承されている字侭田集落へ向かう中ほどで、榊の古木のもとにある。「寛延元戊辰(一七四八)十一月吉日牛尾村」とあって、この石宮も字脇芝から耕地整理工事のときに移されたという。
 もう一つは字切通し二五〇番にある。字名が示すように、芝山町へ通ずる県道によって兵が切り開かれた場所に近く、鳥居が建てられ、石の玉垣がめぐらされている。
 石宮に「正徳二壬辰(一七一二)三月吉日」とあり、玉垣には「勝又   加瀬良之助 勝又金太郎 佐藤   佐藤重平 牛尾根之助 千葉   鈴木源二郎 加瀬   勝又清之助」などが読み取れるが、牛尾根之助の名に注目される。
 足の病に霊験があるといわれて現在も参詣人が多く、近隣三軒の家によって正月十四日の祭事も行われているという。
 庚申塔 字浅間山一〇三一番で潮神社のある浅間山下を左に折れて二〇メートルほど進んだ山裾にある。高さは六〇センチ弱で、表に青面金剛像と「寛政十二庚申(一八〇〇)十二月吉日」の文字が刻まれている。
 飯綱(いいづな)社 集落の西端で字侭田二一七九番の二にある。家並みに続く裏山の上が芝山町との境界になっているが、樹枝状に入り込んだ谷津田をつつむ台地の丘上である。
 現在は雑木に覆われ、五輪塔の一部分と思われる片石が一個あるだけである。
 長野市西郊の飯綱山頂に鎮座する飯綱神社を本宮とする山岳信仰の一つであるが、境内の麓に湧く清水で炊いたご飯は、母乳を豊かにすることに霊験があると伝えられている。
 弁財天社 字宮之下七四三番の一にある。芝山町へ向かう県道を隔てて白幡神社と相対し、集落の中心地である。
 古くは池中の小島に祀られていたが、池は近年埋められて公民館が建ち、その敷地の一角にある小堂の中に祀られている。
 道しるべ 字辻七四四番にある。弁財天の東側に旧街道が通り、その丁字路に立っている。高さ五七センチの石柱に「西殿部田 山中 小池    南谷台 木戸台 横芝    北船越 水戸 多古    昭和八年一月牛尾分団」と刻まれている。
 字切通二四七番にも一基ある。芝山町へ向かう旧道のわきで、西国巡拝の記念に建てたのであろうが、地中に深く埋れている。地上部分は五一センチで「奉納西国三十   北ハたこ   東ハ八日市場   此方   此方  志ば   文化八未(一八一一)八月  」とだけ読み取れる。
 如意輪塔 字外谷(そとや)一九七五番の一にある。栗山川の対岸旧新井村(光町)への旧道には、昭和三〇年代に河川改修が行われるまでこの先に木橋が架けられていた。
 旧道と大炊堤終点が交わるところにある石塔で、如意輪観音像と「牛尾村女人中 明治七戌第五月吉日」の文字が刻まれている。
 堤防改築記念碑 大炊堤の改修碑で、前記如意輪塔と併立している。
 現在の大炊堤は船越の丸山下から直線で延びてここで終わっているが、地元の人たちによると、かつてはこの地点で栗山川側に直角に折れ、七〇メートルほど先でさらに川下に向かって曲がり、そのさきは高谷川岸まで続いていたということである。
 碑は題字を千葉県土木課長西義一が書き、裏面に、大炊堤の由来と当時の東條村村長鈴木金一郎・工事設計者志津忠徳のほか工事委員一八名の氏名および改修延長一六二五メートル、延人員三一〇〇名などのことが刻まれている。建碑は昭和八年二月一日である。
 なお、大炊堤についての詳細は、地域史編船越の項と通史編近世・佐倉藩諸氏の項を参照していただきたい。
 牛尾土地改良竣工記念碑 字宮下八七八番で、県道八日市場・八街線と、同多古・横芝線が交差する地点の水田側にある。
 高さ二・五メートルの板石で、題字は千葉県知事友納武人の書になり、「昭和二十九年二月二十四日多古町土地改良区牛尾工区設立認可、同三十三年三月二十日工事完了、同三十七年七月二十一日換地登記完了、事業量壱百参拾七町五反四畝歩、総工費金壱千六百八拾壱万七千八百参拾弐円也、内補助金四百参拾九万七千九百七拾円也、理事委員三十五名(氏名省略)」などのことが記されている。昭和三十九年五月の建立である。
 山邊毅堂報徳碑 字戸上(とがみ)二〇三四番の三の多古第三小学校敷地の一角にある。
 石井宗太郎の撰文ならびに書になり、大正二年七月十五日に東條村が建てたものである。
 山邊毅堂先生は通称を八郎左衛門といい、嘉永五年(一八五二)船越村に生まれ、明治六年から家塾を開いて村の子弟に学問を教え、同九年に公立小学校が開設されるとその初代教員となり、以来三十有余年にわたって奉職した。この徳を後世に伝えたいとした謝恩報徳碑である。
 なお毅堂の祖父も文人で、大立寺境内に山吹塚と呼ぶ句碑を建てている。