多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

一鍬田(ひとくわだ)

路傍の小祠・石宮など

 集落の中央道路は成田方面への街道であった。一月二十八日の成田山新勝寺の縁日には家々でふかし饅頭を作り、参詣に通る人たちにお茶と共に差し出す習わしがあり、この日を饅頭祭と呼んで、各家では今でもふかし饅頭が作られている。
 路傍の石塔等 集落に入って旧道を歩くと、そのところどころに祀られている石造物を見ることができる。
 東側からの入口にあたる字宅地五四番地にある石塔には「天明三年癸卯(一七八三)九月  帰真悟秋禅定尼 安永九年庚子(一七八〇)二月  道喜禅定門」とあり、反対側にあたる字馬場山五五番地の二には、下の田の畦に埋もれていて後にここに移したという石像があり「享保三戊(一七一八)三月十七日離三禅定門」と刻まれている。
 次に字台山一〇一番地の二にある福泉寺所有の山林内には、道路に向かって二基の石塔がある。一つは「宝暦九己卯年(一七五九)真学妙永禅定尼 奉真読大乗妙天一千部自他平等利益十月十八日 禄雲貞柳信女 施主当村中」、もう一つには「馬頭観世音 文政五年午(一八二二)二月吉日 村講中 当村願主秋羽武右衛門 卯生新兵衛」と刻まれ、向い側の字馬場七四番地にある一基には「馬頭観世音 天保五午(一八三四)九月十六日 高木平右衛門」と刻まれている。
 道路五差路のある字馬場七三番地の五には道標があり、「西一鍬田 三里塚 成田山道 大正五年二月建之 多古町一鍬田区 関西参宮同行 秋葉藤右衛門 瓜生清吉 秋葉仙太郎 瓜生定吉 瓜生由治郎 吉岡新田諸岡市作 南五辻停車場 多古 八日市場道 北本大須賀 滑川 神崎道 関西記念 東久賀 佐原道」と刻まれている。
 道標の向かい側で、字台山二一八番地のところに道祖神と呼ばれる石造の小宮が祀られているが、刻字は摩滅して読み取れなかった。
 集落の中心地を過ぎて北の端に行くと小さな流れがあり、その川岸の字竹の下三二六番地に二基の石像が建てられてある。如意輪観世音と思われる像には「文久三年亥(一八六三)五月日 当村女人 」、地蔵菩薩と思われる像には「文化十三丙子(一八一六)二月吉日 一鍬田村善女人講中」とそれぞれ刻まれている。
 流れを渡って丹波山の台地へ通ずる坂の上あたりの字向台四〇五番地に、四基の石塔がある。台座に三猿が刻まれた石塔には「寛延元天(一七四八)一鍬田天下泰平郷内」とあり、もう一基の、はっきりと正面に「青面金剛王」とあるものには「嘉永三庚戌(一八五〇)七月吉日 大竹久兵衛」、別の一基には「帰真一声法師霊 明和九壬辰年(一七七二)三月二十日厺(去)、南山ミち、西弥こ奈(根木名) 酒々井 と津こ(取香) 成田 東たこ(こ) 八日市場 飛と具王た(一鍬田)」と刻まれ、残る一基は刻字が不明であるが、先出の石塔より年代は古いように思われる。
 一鍬田には、真言宗、曹洞宗と二つの寺が存在した時代があったため、両宗の名残りが石仏や行事に見られる。
 字台山一〇一番地の二の、現在福泉寺所有になっている山林の南端に一基の石塔があって「奉唱光明真言二百万遍供養塔 文政七甲申年(一八二四)二月吉日 講中」と読める。
 この石塔にかかわる行事に次のようなものがある。まず五、六歳から十歳ぐらいまでの女児がその年の当番の家へ雛祭り前日に集まり、寺から借りた地蔵菩薩像を胸に抱いた子を先頭に各戸を回って喜捨を受ける。そして、泥でこねたお供え餅のようなものを作り、それを季節の花で飾り立てる。
 三月三日の雛祭り当日は、晴着に着飾って当番の家に集まり、楽しいひとときを過ごすわけであるが、会の終わりには、花で飾られたお供えを捧げた子に続く行列がこの石塔の前に進み、供物を奉納するというもので、昭和十年ごろまで行われていた。
 行列は、次のような言葉を声高らかに唱えながら進んだという。
 
  花日どんのかんじん、地蔵のぼさつ、あとからくるものしょいかんじん、あとからくるものみそかんじん
 
 浅間社 字浅間一二五番地の一で、人家のある丘陵部間の水田をはさんだ南の台地に建てられている。「木花開耶姫神参明藤開山 明治十六年未三月 日 船越村大先達与風忠行 村社中 発起人世話人瓜生兵右衛門忰達治 瓜生兵左衛門 秋葉藤右衛門 秋葉武右衛門 秋葉藤左衛門   千太郎 瓜生庄兵衛 瓜生敬助 同武重 同宗兵衛 同勘右衛門 森川四郎左衛門 同三郎左衛門 青柳総右衛門 村連中 大竹久兵衛 瓜生勝右衛門 同源之丞 同要助 戸村重右衛門 高木平右衛門 大竹利兵衛 一鍬田村秋葉武右衛門 秋葉藤左衛門 旧三月四日立」とあって、富士講の祠である。
 現在はこの講に関する行事はほとんど行われていないが、社の境内は掃除が行き届いており、地区民の崇敬の念の深さがうかがわれる。
 千部経碑 字向台四〇四番地にあって、丹波山に向かうと坂を登り切った所の道路右側に建てられている。
 丹波山地帯が開畑される以前は、一〇メートルほど奥にあった塚の上に建てられていたといわれるが、いまはその塚もない。刻字は「奉真読 乗妙典千部為自他二世安楽 元文五庚申(一七四〇)三月廿七日 願主恭翁浄 沙弥 一法恵性沙弥尼春山梅香信女 円応凾庵主善学高波信女徹明喜男」と読める。
 子守地蔵 字寺の前三一七番地にある。現在の第二小学校分校校庭の端で、かつて二寺あった時代の境内入口あたりかとも思われる場所である。
 この地蔵尊は当地域が大須賀郷(また荘・保とも。呼び方は乱れていた)に含まれていたことをうかがわせる唯一の手掛かりでもある。
 縁起などについて知る人はなく、刻まれた文字も摩滅しているが、「二親為菩提下総国大須賀 一鍬田村天和三年亥(一六八三)十月吉日」の文字と、台石に建立者と思われる多数の人名が刻まれているが、その中で判読できたのは、宗四郎・新兵衛・久兵衛・新十郎・伝左衛門・藤兵衛・長兵衛である。
 馬頭観世音 字西之内三九五番地の一にあるものには、「馬頭観世音 明治三庚午七月日願主瓜生新兵衛 大竹利兵衛」とあり、字西之内三五〇番地の二にあるものは大正七年の建立で、台石に発起人瓜生武次郎以下二〇名の氏名が刻まれている。