多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

一鍬田(ひとくわだ)

 一鍬田の支配者で、現在わかっている人名は少ない。明治に編纂された『旧高旧領取調帳』は、徳川末期に当地区を知行していた旗本の人名を左のように神保・小田切両氏と記している。
 
   代官支配所  三五石七斗八合
   神保 数馬  一〇六石四斗八升九合
   小田切愛之助 五石
 
 神保氏
 もとは越中国(富山県)礪波(となみ)郡守山城に住み、織田信長の旗下に入ってからは能登国(石川県)勝山砦の守りにつくが、事情あって浪客となり、肥後熊本に隠棲した。
 天正十七年(一五八九)氏張(清十郎、安芸守)のときから徳川家康に仕え、同二十年(一五九二)二月下総国香取郡内で采地二千石の御朱印を受けた。この年の朝鮮出兵に氏張は江戸留守居役を勤めたが、八月五日に六十五歳で没し、知行地の一つである香取郡伊能村(現大栄町)宝応寺に葬られている(地域史編高津原の項参照)。
 孫の氏勝(市右衛門)は、弟氏房に五百石を分けて分家させたことにより千五百石となり、その後氏信・氏寿(とし)・氏秀・武周(ちか)・武甫(はる)・武利・武貞(寛政五年十二月相続)と続き、代々小姓組、書院番士などを勤めた。
 郡内での知行地には成井・中野・稲荷山・柴田・桧木・高津原・石成の各村があり、一鍬田における名主役は勘之丞家が永年にわたって勤めたようである。
 年貢に関するものの一例を見ると次のようになっている。
 
       午年(安永三年)皆済目録
   一、米百三拾三俵三斗八升弐合 一鍬田村
       内
     壱斗    妙見御供米
     壱俵    月拝料福泉寺江渡
     四俵    御中間給米
     三俵    名主給米
       小以八俵壱斗
     残百弐拾五俵弐斗八升弐合
         右納次第
     百四俵六升九合弐勺   廻米
     七俵壱斗七升弐合八勺  運賃小納物共
     三俵弐升六合六勺    金納
      此代金三分五匁七分五厘
     大豆弐俵
      此代米 壱俵
     小豆六升
      此代米 三升
     胡麻弐升
      此代米 壱升
     九俵三斗七升六合四勺  延米金納
      此代金弐両三分六匁五分七厘
   一、[永壱貫五百八拾五文 鐚四百四拾文]  野山銭
 
 そして、石盛(こくもり)は次のとおりである。
 
   一、上田壱町六畝七歩    盛十三
     分米拾三石八斗壱升   取米反ニ四斗七升八合
   一、中田壱町五反八畝五歩  盛十一
     分米拾七石三斗九升   取米反ニ三斗六勺
   一、下田六町弐畝拾九歩   盛九ツ
     分米五拾四石弐斗四升  取米反ニ四斗六升八勺
   一、屋敷六反三畝弐拾三歩
     内壱反三畝十四歩
     寺弐ケ寺附免      盛八ツ
     分五石壱斗       取米反ニ壱斗三升五勺
   一、中畑七反弐畝拾六歩   盛六ツ
     分米四石三斗五升九合  取米反ニ五升五合五勺
   一、下畑壱町三反壱畝廿六歩 盛五ツ
     分米六石九斗五升    取米反ニ壱斗六升四合
    高合百壱石四斗八升九合
    此取米百弐俵ト壱斗五升弐合五勺
                  但し四斗廻し
 
 小田切氏
 はじめ武田家の家臣で代々信濃国(長野県)佐久(さく)郡小田切村に住んでいた。姓は地名からとったものである。光猶(なお)(喜兵衛)が天正十四年(一五八六)から徳川家に仕えて慶長二年(一五九七)に百五十石の采地を受け、孫の直利(土佐守)の代までたびたび禄高の加増があった。元禄十年(一六九七)さらに三百石加増されて、その総禄高は二千九百三十石余となる。知行地は武蔵国(埼玉県)橘樹郡、上総国天羽・武射二郡、下総国豊田・香取二郡、摂津国(大阪府)嶋上・嶋下二郡、上野国(群馬県)山田・新田二郡、下野国(栃木県)芳賀(はが)郡の計一〇カ郡に及んだ。一鍬田の一部が小田切家の知行地となったのはこの時代からと思われる。
 以来、江戸・大坂の各町奉行などを勤め、郡内での他の知行地は寺作・大寺・桐谷・鏑木・南堀之内などであった。年貢関係の明細については資料がなく、明らかにすることができない。同家の知行地のうち一鍬田の名主は勝右衛門が勤めた。
 代官
 天正十八年(一五九〇)から、それまで小田原北条氏の支配していた関東の諸国は徳川家康の管轄するところとなり、徳川家ではその直属家臣である旗本への給与としてこれまでの稟(リン)米(禄米、扶持米、廩とも)と同量の米の生産が見込まれる土地(采地)を与えることにした。この土地を知行地ともいうが、各旗本はその知行地から直接年貢を受け取った。
 この旗本知行地のほか、幕府が直轄する土地を天領といい、それを支配する地方官を代官と称した。代官は、年貢徴収・司法検察を主務として天領の民政にあたった。
 一鍬田における代官支配地の石高は、前記のように三十五石七斗八合であり、残された古文書に見られる代官の氏名は次のとおりである。
 小宮山杢之進(享保十六年)、飯塚伊兵衛(安永五年)、瀧川小右衛門(文化二年)、鈴木伝市郎(文化八年)、中村八太夫(文化十二年)、山田茂右衛門(文政四年)。