多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

間倉(まぐら)

軽便鉄道

 間倉北部の飯笹との境界線上に、軽便鉄道五辻駅の設置に伴って現在の「五辻」が誕生した。

五辻駅

 明治初年の、矢作牧と呼ばれて来た古来からの野馬放牧場開拓に端を発し、矢作牧に連なるこの地域が雑木と芒(すすき)の原野から畑地に変わり始めたころ、当時の千葉県知事有吉忠一によって鉄道敷設の案が生まれ、地元有志の陳情などもあって、ようやく胎動を始めた。
 明治四十三年六月六日、千葉県臨時議会に柏・野田間と、成田・多古間二線の軽便鉄道敷設案が上提された。知事は本案上提理由を次のように説明している。
 「何故にこの二線路を選択したるかを問はれん。之に付き説明を為さん。元来軽便鉄道は、欧羅巴諸国に於ては利用すること甚だ盛大なるも、我国に於ては微々として振はず。欧州諸国は大都市と大都市とを連絡するために広軌の鉄道を敷設するも、地方交通には大なる運搬力を要せざるに依り、可成軽便鉄道を敷設し之を専ら農民の保護に供し、而して其鉄道の収支相償はざるも地方勧業の発達上、甚だ利益なるを以って云々」と説明し、さらに敷設の具体的方法として、「尚一言県民が忘るべからざる事あり。諸君が先年協賛を与へられたる千葉・木更津間軽便鉄道敷設は、何れも源を陸軍に属する鉄道材料を借用なせることに帰せり。陸軍官憲殊に鉄道連隊の好意に依ることに帰せり。材料の供給敷設運転の作業に就き提供を受けたる結果に外ならず。若しこの事無くば、如何に千葉県の地勢軽便鉄道を敷設するに適し、且つ県民が熱心なるも決してこれを遂行する事能はず。鉄道連隊の好意を謝するに余りありと言ふべし云々」(原文のまま)と述べ、資材と技術の提供を、千葉・木更津線工事の前例どおりに千葉市内にあった鉄道連隊から受けることとして、満場一致をもって可決された。
 その後は、成田・多古間の通過路線の決定で激しい議論があり、路線関係住民の権益主張や、各地区からの陳情合戦などがあったが、結局原案どおりに着工されることとなり、終点多古駅は学校下(現多古五六六番地周辺)となった。
 駅は成田・成田裏・東成田・法華塚・三里塚・千代田・五辻・飯笹・染井・多古の一〇駅である。
 この軽便鉄道は距離一四哩半(約二三・三キロメートル)、工事費予算額一七万七、〇〇〇円で、明治四十四年二月から地元民にも義務人夫を割り当てて土木作業が開始され、着工の早かった成田・三里塚間は、この年の七月五日には開通式が行われた。
 三里塚・多古間は同年九月に土木作業を完了し、次の工程の工兵隊による線路敷設作業に入るため、九月七日には三二〇名の兵士が到着した。そして、沿線各集落の家庭に分宿して敷設作業に当たったのである。
 そのときの模様は、次に掲げる多古町役場の通知文によっても想像することができる。
 
     軍隊舎営ニ就キ注意事項
  一、軍隊ノ宿泊セシ家屋ノ入口ニハ昼間ハ旗(若シクハ之ニ代ユルモノ)、夜間ハ提灯ヲ掲ゲテ明示スル事
  二、舎営家屋ノ井戸端、流、便所、居所等ハ清潔ニセラレタキ事
  三、寝具ハ美ヲ要セザルモ清潔ナルモノニシテ、毎日日光消毒ヲ行フ事
  四、舎主ハ兵士ニ生水ヲ給セズ、何時ナリトモ湯水ノ用意ヲナシ置ク事
  五、各宿人員ニ応ジ銃架ヲ作成スル事
  六、各宿人員ニ応ジ靴箱ノ用意ヲナス事(石油箱ノ如キモノ)
  七、給与スル飲食物ハ総テ不消化物ヲ用ヒズ、充分衛生ニ注意スル事
  八、毎朝軍隊ノ整列時間ニ遅レザル様食事ノ用意ヲセラレタキ事
  九、旅館料理店ニ於テハ女中ノ言語動作ニ注意シテ、軍人ニ礼ヲ失セサル様セラレタキ事
  十 其ノ他質問ヲ要スル場合ハ役場又宿舎長ニ付間合セアリタシ
     明治四十四年九月六日
                     多古町役場
 
 この鉄路敷設は一週間で三里塚・多古間を完了させ、九月十四日に工兵隊は町を引揚げている。
 その一カ月後の十月十五日には、北総台地の大動脈であり沿線住民の夢だった鉄道が、軽便汽動車ながら成田・多古間を予定どおり完成した。一日に一三往復で、多古から成田までの三等運賃は三三銭であった。
 間倉区としては、多数の作業人夫と寄付金総額五、〇二〇円の内七五〇円を集め、停車場用地として五反四畝八歩、線路敷地として一町三反七畝一四歩の土地を提供したが、これらのまとめ役は、軽便鉄道協議会の間倉選出委員石神井佐仲・加瀬桃次郎の両名であった。
 今までは見渡す限りの一大原野であり、その中に突如として鉄道の駅舎が出現したわけであるが、これに伴って町内各地や近県から急速に人口の移住が行われた。町内で最も早く移住した人は島の宇井磯吉であったといわれている。
 すでに開拓が進んでいた十余三、またその後開拓された御料地一帯からの農産物、木材、薪炭の出荷は格別に便利となり、伊橋・丸喜両運送店、料理旅館東京屋、雑貨荒物商松屋、農産物商の金子・秋葉・戸村各店が続いて開店し、数年前までは国境いの旧街道が原野の中をよぎり、近郷の農耕馬を集めての競馬以外には人影もめったに見られなかったところが、数年のうちに農産物の集散地としては多古を凌ぐ盛況を示すようになった。
 このころの汽車の速度はいまだに語り草になっているほどで、走行中に跳び降りて小用を足し、大急ぎで追いかけて再び跳び乗ることができ、また路線の最大難所だった飯笹から五辻へ向かう上り勾配では、貨車の荷の多いときはレールに砂を撒いて車輪の空転を防ぎ、時には乗客に後押しを頼むこともあったという。
 このような輸送力に加えて、成田に着いた貨車の軌道幅員が、それから先の鉄道幅員と異なるために東京に通ずる線路に入れず、その都度貨物の積み替えをしなければならなかった。それだけ運賃高となり、他線の農産物と比べてその分だけでも価格の面からみて不利となるのは当然であった。
 他方、多古以南の日吉・吉田・豊栄などの住民から延長の要望も強く、大正十一年八月三十日の県議会で、八日市場までの延長と千代田駅地先から五辻駅を経て染井駅に至る間の路線変更案が可決され、同十五年十二月五日には、この八日市場までの延長改良工事完成と、多古駅がそれまでの多古五六六番地から現在の国鉄バス車庫の場所(豊田)に移動したことを記念しての祝賀式が行われている。
 そして、このときから五辻駅も、間倉五四四番地周辺から南に二キロほど離れた同四二八番地周辺へと移った。そのため駅周辺の繁華街は、まさに発展途上にありながら線路から遠ざからねばならなくなったのである。
 しかし、新しい線路も同じような運命をたどることになる。昭和二年二月二十七日の県議会において成田鉄道株式会社に一四〇万円をもって払い下げが可決され、それ以後は私鉄として運営されて来たが、第二次大戦の末期に、軍の作戦上この鉄道を南方諸島の輸送力増強のためとして移設することになり、同十九年一月十日をもって営業が停止された。陸軍の全面的な支援によって誕生した鉄道が、ここにまた陸軍の意向によって撤廃されたわけである。
 五辻も、住民の不断の努力と農地解放とによって一部は商業地域から農村へとその形が変わり、昭和二十七年には間倉・飯笹から分離独立して、行政区画上は別としても事実上は五辻区の名のもとに大きく伸展し、現今は空港の開港にともなって、ますます人口の増加を見せている。