多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

間倉(まぐら)

 古い時代からの支配者の名前や住民の生活様式をうかがうに足るものは未だ発見されていない。わずかながらもこうした関係を伝える史料が見られるのは徳川期に入ってからである。それも最古のものは元禄十五年(一七〇二)に幕府から下された村境争いと野論の判決書である。(この論争については「村の文書」の項に述べる)。
 それ以前は、伝説の域を脱しないが応永年間(一三九四~一四二七)加瀬・平山・石神井の三家と、飯笹宿之台から分かれた萩原・鵜澤の各家が居を構え、そこからの分家が増えていって、これが現在につながる直接の先祖であるといわれている。
 また、字宮様の上部に宮内豊後守の館跡と称されるところがあり、遺構がはっきり残されている。これがある時期における支配者のものではないかと推測されるが、はっきりと立証する文書・遺物などは見られない。
 幸いに、寛政五年(一七九三)に書かれた『村鑑明細』が残されていたことから、当時の支配者ごとの知行高その他も明らかにされたが、これを見ると、石谷・神尾・山角・内藤の四旗本と小田切氏与力の給知であることがわかる。
 その全文を次に掲げる。
 
       村鑑明細
            下総国香取郡 間倉村
    小田切土佐守組与力知行所
  一、高三拾六石六斗壱升四合
    石谷大助知行所
  一、高弐拾七石四斗六升
    神尾市左衛門知行所
  一、高拾八石三斗八合
    山角四郎左衛門知行所
  一、高拾八石三斗八合
    内藤熊太郎知行所
  一、高拾八石三斗八合
    惣高〆百拾九石
   右高反別之儀者従往古御水帳無御座、無反別而様子相     名寄帳を以、銘々持高ニ而   勘定仕候
  一、家数 弐拾四軒
       内寺  壱ケ寺
       五拾七人  
       四拾八人  
     〆男女百五人 馬六疋
   右者此度村鑑明細帳被仰付候ニ付私共立合相改書上候通り相違無御座候 以上
     寛政五癸丑年(一七九三)八月日
                                  下総国香取郡
                                        間倉村
                               小田切土佐守様組与力知行所
                                   名主 佐左衛門 印
                                   組頭 勘左衛門 印
                               石谷大助知行所
                                   名主 源之丞  印
                                   組頭 佐右衛門 印
                               神尾市左衛門知行所
                                   名主 惣兵衛  印
                                   組頭 利右衛門 印
                               内藤熊太郎知行所
                                   名主 伊兵衛  印
                                   組頭 萬右衛門 印
                               山角四郎左衛門知行所
                                   名主 太兵衛  印
                                   組頭 文右衛門 印
   右之通明細帳五辻よ里加茂台迠分見被遊候節、道祖神ニ而役人方御休息之節差上申候
 
 このように、家数二四軒で総石高一一九石の間倉村を知行地とした旗本各家は、それぞれどのような家柄で、知行の内容はどのようなものであったかを次に記すが、既に他集落のところで述べてあることと一部重複のある点を了解していただきたい。
 神尾(かんお)氏
 徳川家康の側室阿茶局の養子となった神尾備前守元勝を初代としている。元勝は寛永十年(一六三三)にそれまでの甲斐国(山梨県)八代(やつしろ)郡内の采地に上総国埴生(はふ)郡(山武郡)内の地を加えられて千八百石の知行地を受け、のち、長崎奉行、江戸町奉行などの職についたが、寛文二年(一六六二)十二月致仕、同七年(一六六七)七十九歳で没した。
 次男の元清(備前守、市左衛門)は寛文二年(一六六二)父の隠居後、兄元珍(はる)の知行地の中から上総国周准(すす)、武射(山武郡)両郡、下総国香取郡、常陸国(茨城県)真壁(まかべ)郡、上野国(栃木県)新田(にった)郡の五郡内で千石の知行地を譲られて一家を創立した。この時から間倉の一部は神尾家の知行地となった。
 以後代々奈良・京都奉行、作事・勘定奉行、大目附などの要職を勤めながら明治に至るまで当地を知行したが、総石高は千七百石(天和二年に七百石加増)で、間倉での知行石高は十八石三斗八合であった。
 明治に入る最後の当主は神尾市左衛門で、香取郡内での他の知行地としては、中佐野がある。
 次の年貢皆済目録は弘化二年(一八四五)のものであるが、高十八石三斗八合に対して正税が六石五斗三升三合であるから、年貢率は三五パーセントということになる。
 
       辰御年貢皆済目録
                下総国香取郡 間倉村
  高拾八石三斗八合
      此納
    一、米六石五斗三升三合     本途
    一、米壱斗八升六合六勺     口米
    一、永弐百四文四分       本途
    一、永六文壱分三厘       口永
    一、永五拾弐文壱分五厘     大豆七升三合
                    代永納
                     但両ニ壱石四斗替
      米六石七斗弐升
  合    此斗立七石六斗八升
      永弐百六拾弐文六分八厘
      此納次第
    一、米弐斗           名主給米
    一、米五石六斗三升三合弐勺七才 廻米御蔵入
    一、米三斗六升六合壱勺六才   右運賃米渡ス 但佐原より六分五リ
    一、米壱石三斗九升壱合七勺   当辰不作ニ付御用捨引被下之
    一、米八升八合八勺七才     石代永納
    一、永拾四文六分        大豆七升三合
                    代永渡ス 但両ニ五石替
    一、永弐百四拾八文八厘     畑永納
      米五石七斗弐升弐合壱勺四才
  納合  内米八升八合八勺七才    石代永納
      永弐百四拾八文八厘
   右者去辰御年貢米永書面之通上納皆済ニ付小手形引替一紙目録相渡候 然ル上者重而小手形出候共可為反古もの也
     弘化二巳年四月
                                 高間太久馬  印
                                 高間丈右衛門 印
                                 久保田傳太夫 印
                                      右村
                                        名主惣兵衛殿
                                          組頭中
                                          惣百姓中
 
 石谷(いしがや)氏
 二階堂、西郷を姓とした時代もあったが、遠江国(静岡県)石谷村に住居を持つようになってから地名を姓とした。
 今川義元麾下の武士である。政清の代から徳川氏に仕えているが、政清の四男清定は父兄とともに元亀二年(一五七一)徳川家康の幕下に入り、天正十八年(一五九〇)武蔵国(東京都)多摩郡内で、二百五十石の知行を受けた。
 その長子清正は慶長七年(一六〇二)父の跡を継ぎ、寛永十年(一六三三)に五百石の加増を受け、さきに加増された三百五十石を加えてすべて千百石となり、知行地は武蔵国多摩郡、上総国武射郡、下総国香取郡、甲斐国(山梨県)山梨郡の四国四郡に及んだ。この時から間倉の一部は石谷家の知行地となった。
 以後代々小姓組番士、普請番の職を勤めたが、清正の曽孫に当たる清職(もと)は、宝永三年(一七〇六)正月、赤穂浪士事件で知られた吉良上野介の遺子・吉良左兵衛義周の死亡に当たって検使を務めている。
 以後代々引き続き明治に至るまで間倉の一部を知行地とした。ここでの知行高は二十七石四斗六升であった。
 明治に至る最後の当主は石谷鉄之助で、郡内での知行地は他に中佐野があった。
 内藤氏
 武田氏の一族で、若狭国(福井県)天下の城主であったが、豊臣秀吉に攻められて落城してから一時期浪人した。
 長教(のり)のとき慶長十九年(一六一四)、徳川家康と祖父政高が知り合いであったことから徳川家に仕えて、二度の大坂の戦にも参加した。上総国武射郡、下総国香取郡、海上郡、常陸国真壁郡の四郡内で八百石の知行地を受けている。
 長教の二番目の孫長就(なり)が寛文四年(一六六四)一家を創立して祖父の知行地の内から上総国武射郡、下総国香取、海上の三郡内で三百石を分けられたが、間倉の一部は慶長十九年(一六一四)に内藤本家の知行地となっていたものを、この年から分家の長就にその支配権が引き継がれたのである。以来代々書院番等の職を勤め、内藤分家の支配は明治まで続いた。間倉での知行高は十八石三斗八合である。
 明治に至る最後の当主は内藤彦次郎といい、郡内での他の知行地としては、中佐野、志高、羽計の各村がある。
 山角(やまかど)氏
 山城国(京都府)宇治郡山角に住んだところからその地名を姓としたといわれている。
 もと北条家の家臣で、小田原落城のとき定吉は、北条氏輝等の自刃の側役を勤め、その後剃髪して高野山に入り、氏輝の菩提を弔った。のち招かれて徳川家康に仕え、天正十九年(一五九一)武蔵国(東京都)多摩郡内で千五十石の知行地を受けた。
 子の勝成は元和元年(一六一五)大坂陣に戦功をあげ、同二年父定吉の跡を継いだときには、二人の叔父が分家したことから知行高は五百石となったが、寛永四年(一六二七)新知行地を受けて六百石となった。この新知行地が上総国武射郡、下総国香取郡の二郡内の村々で、間倉の一部もこの時から山角家の知行地となった。
 以来代々市ケ谷門の普請奉行、上野国館林の城引渡役、三河国岡崎城の引渡役などの要職を勤めて明治を迎えた。間倉における知行高は十八石三斗八合で、郡内での他の知行地には、中佐野がある。明治に至った最後の当主は山角磯之助であった。
 次のものは、元禄六年(一六九三)に山角家が受けとった年貢皆済である。
 
         覚
   一、納高米拾六俵五合ハ 間倉村
                  藤十郎
                  長右衛門分
     内
    米拾参俵壱斗九升ハ舟積度々ニ請取
    米弐斗八升五合ハ右之舟賃(ちん)ニ引
    金弐分ハ   金子ニ而納ル
    此米壱俵三斗三升 但壱両ニ付壱石四斗六升かへ
   惣〆拾六俵五合也
   右者去申ノ年其村御年貢米如此請取令皆済者也
                                  山角藤兵衛内
                                     吉田喜太夫
                                     芝 弥兵衛
     元禄六年酉(一六九三)ノ二月十二日
                                  下総国間倉村
                                       名主 新兵衛殿
                                       組頭 藤十郎殿
                                       百姓代長右衛門殿
 
 年貢米十六俵五合は、一俵が三斗三升入りであるから合計五石二斗八升五合となり、石高の十八石三斗八合に対する年貢率は二九・五パーセントであることがわかる。
 与力給知
 江戸町奉行の配下に五〇人の与力職があって、各々二百石取りであった。この与力の給与として間倉から三十六石一斗余を年貢として納めていた。いつごろから与力給知になったかについては現在のところ不明である。
 なお、前記『村鑑明細』による寛政五年(一七九三)当時は小田切土佐守組であるが、天保十一年(一八四〇)に村役人が寺社奉行に差出した文書によると「遠山左衛門尉組」と代っている。
 小田切氏については、「地域史編一鍬田の項」に記してあるので参照されたい。