多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

飯笹(いいざさ)

路傍の小祠・石宮など

 道しるベ(一) 字三明寺台四一番地の路傍にある。道路改修のとき移動されたもので、以前は現在地より一〇メートルほど北側に建てられていた。
 正面には「西国拝礼記念碑」と刻まれ、その右側面に「多古 中村道」、左側面に「八日市場 てうし道 飯笹飯塚金兵衛 萩原平太郎 秋山利衛門 菅澤庄右衛門 萩原平右衛門」、西側面には「飯笹 菱田 源田 なめ川 三里塚 成田道 萩原治助 秋山忠三郎 伊藤三右衛門 秋山鶴松 伊藤与之助 萩原喜兵衛」とある。明治三十三年八月の建立で、高さは一・五メートルのものである。
 道しるべ(二) 字氏神一〇二五ノ二番地(通称論所(ろんしょ))に、三分の一ほど埋まったまま建っている。五辻へ向かう道と間倉に通ずる三差路地点である。
 古い桜の木の下にあって、「奉順礼伊勢西国三拾   飯笹 たこみち」「なか村 八日市場道」「此方まぐら 成田さくら 東  」「明治十六  」などと刻まれているが、以下は地中に没しているため読み取ることはできない。
 道しるべ(三) 六〇センチほどの石塔正面に「西国順礼供養搭」とあり、その右下に「いひさゝ 多こ(こ) 中むら」、左下に「八日市場 てうし」、右側面に「此方まへは(は)やし 一くハ(鍬)田 源田 なめ川」、左側面に「此方まくら 飛し(菱)田 加茂 酒々井 左くら   」とそれぞれ刻まれている。建立は弘化二年(一八四五)十一月である。
 浅間社 字浅間三二ノ二番地にある。上屋に覆われた石宮で、「浅間神社」「元文六辛酉(一七四一)三月十五日 飯笹村萩原氏平兵衛」とある。
 もう一つの石祠が字浅間四五番地にある。年月日・願主とも前記のものと全く同様であり、管理は萩原平右衛門家、萩原平兵衛家、秋山利右衛門家によってなされている。
 この両社には、社に付けられた五アールの畑(登記簿上は三家の共有地になっている)があり、この地料によって管理費が賄われる習わしになっている。
 庚申塔 字ヲボミ一三九ノ一番地にある。文政八年(一八二五)に建てられたもので、バス停「飯笹人口」から約五〇メートルほど南のところである。鳥居が建てられ、石宮は木造雨覆いの下に納められている。女人たちに人気のある神と聞く。
 道祖神 字辻屋台(つじやだい)六五二番地に祀られている。鎮守に向かう坂の中ほどの右側で、「道祖神」と彫られた数多い石宮と無数の小石が見られる。一名「いぼ神様」といわれ、ここの小石を借りて、いぼや足をさすると、いぼも足痛も平癒すると信じられている。近年に建てられた道祖神(昭和五十一年十月・菅澤庄衛)もあり、また、新しい幟や旗がいつも目につく。
 いま一つ字五辻一一七〇ノ一番地に、北向きの道祖神があり、刻字は「享和元年(一八〇一)一月吉日 徳右衛門」とある。数個の小石祠と無数の小石、幟が奉納され、新しい供物や賽銭も上げられている。参拝して、しきりに石で足をさすっている老人の姿も見受けられた。
 北総一帯では、北向き道祖神は祟りが多いとされているが、ここの道祖神も同様で、枝一本剪っても祟りがあり、その当人は永い病にかかると信じられ、そのためか、周囲の樹木は誰もその枝を払うことをしないため地上から天空を仰ぎ見ることはできない。しかし誰が掃くのか、地面にはいつも掃目がたてられている。
 この北向き道祖神には一つの伝説がある。
 むかし、旅の母娘が疲れて休んでいたとき、臨月であった娘が急に産気付き、二人は困ってしまった。そこへ、どこからともなく白い蛇が現れて、私について来いという。母娘はこわごわながらその後について行くと一軒の家があり、中には布団やら産用具一切が用意されていて、人影はなかった。二人が家の中に入ると、蛇はいずれかに姿を消してしまった。
 その家で無事玉のような男子を出産して、母子はほっとしていると、こんどは一人の老婆が現れて「産婦が日立ったらここを真っ直ぐに東へ行きなさい」という。やがて、そのとおりにして再び旅立つと、佐原へ通ずる街道に出られ、そこから無事家に帰ることができたということである。
 意地が悪いといわれる北向き道祖神にまつわる数少ない伝説である。
 庚申塔 字氏神一〇二五の二番地(前出の道しるべと同所)に青面金剛の立派な石塔が建てられている。古い雑木の蔭で人目につきにくいが、浮き彫りにされた像の右に「源田 滑川 寛政十二庚申(一八〇〇)十二月吉日」、左に「間倉 菱田 佐倉 家内安全子孫長久之所 願主当村萩原五左衛門 同苗平左衛門 惣村中」とある。
 瀧・浅間社 字タキ一二二五番地の、円錐形をした小丘の頂上に石宮がある。荒れ果てて、今は管理する者もいないが、参道もはっきりと残されている。これが「瀧の浅間様」で、宝暦反別帳にも「除地」として載せられている。このあたり一帯は、かつての名刹東雲山瀧門寺の境内である。石宮は一部が破損しており、刻まれた文字は見られない。
 飯笹木戸 字五辻一一六八番地と、同一一六九番地附近に「飯笹木戸」があった。五辻の家並みの終点で、本五辻へ向かう曲り角の所で土手が築かれている。下総・上総の国境い道の始点はここからわかれる。
 道しるべ 同一一六六番地には西国四国順礼の供養塔兼道しるべが建てられている。右側面には「左原 かんとり いのふ さくら道」、正面には「西国四国供養塔 いゝさゝ たこ 八日市場道 ひした 山中 はまみち」、左側面には「きちをか 神さき 源田 なめ川道」とあり、裏面には「文化六己巳年(一八〇九)十月吉日 前林村道行講中」の文字と大木惣右衛門外二〇名の名が刻まれている。
 その他の石仏として、字居下(いのした)八六ノ三に如意輪観音(明治一七年)、字辻屋台六五一ノ二に庚申塔(元文五年・一七四〇)があり、字同六五一ノ一に二基ある馬頭観音は、文化八年(一八一一)と寛延四年(一七五一)に建てられたものである。そして、同じ場所に十九夜塔があり、「飯笹村十九夜念仏 宝永五年戊子(一七〇八)二月上旬吉日 八十余輩敬白 善女人等」の文字が見られる。