多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

飯笹(いいざさ)

宗教/神社・寺院

 まず『社寺明細書』を見ると、次のように書かれている。
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町飯笹字門(かど)
                                     中本寺蓮福寺末
                                          真言宗 満福寺
  一、本尊   虚空蔵菩薩
  一、由緒   応永元甲戌年(一三九四)二月拾五日醍醐報恩院二十世ノ住教音弟子教覚創創(ママ)ノ由 古老ノ口碑ニ存候
  一、堂宇間数 間口弐間半 奥行弐間半
  一、境内仏堂 壱宇
     大師堂
       本尊 弘法大師
       由緒 不詳
       建物 間口弐間 奥行弐間
  一、境内坪数 弐百九拾参坪 官有地第四種
  一、境外所有地 (一筆毎明細略)
  一、檀徒人員 五拾弐戸
   (符箋)大正十年十二月二日満福寺兼務住職篠崎清憲
      昭和二年九月三十日附ヲ以テ満福寺ヲ地福寺二合併ノ件許可セラル
 
 このように、昭和二年九月に地福寺へ合併されているが、明治初めには地福寺をしのぐ檀徒数を有した。字椎ノ木の檀家が大部分であった。高皇産霊神社の別当も兼ね、満福寺什器帳(年代不詳。仏像から所有地までの明細書)を見てもかなりの寺勢があったようである。
 先祖代々の墓地をこの寺に持つものも多かったが、墓石も地福寺はじめ、それぞれの共同墓地に移転され、いまは寺院としての面影はない。
 古老によれば、明治中ごろの住職に、職務を怠け、寺宝を勝手に持ち出しては遊興に費し、寺総代の諫言にも耳を傾けない僧がいて、結局は彼のために廃寺となったものだということである。
 廃寺後その建物は村の公会堂として改築され、村民に利用されていた時期もあったが、今はすでにそれもない。
 明治初年に記されたと思われる満福寺の什器帳が残されているが、当時の寺院の規模内容を知る一端にもなろうかと、次に記しておく。
 
       満福寺什器帳
   第壱項仏像之部
  本尊  虚空蔵菩薩   木像壱体
       但シ御丈四寸五分
      金大日如来   木像壱体
       但シ御丈壱尺四寸
      観世音菩薩   木像壱体
       但シ御丈壱尺五寸
      勢至菩薩    木像壱体
       但シ御丈壱尺五寸
      弘法大師    木像壱体
       但シ御丈壱尺二寸
   第二項仏画之部
      胎蔵界曼荼羅  壱幅
       但シ年号寄附筆者未詳
   第三項ヨリ第八項マデ無御座候
   第九項器具之部
   茶釜       壱箇
   火鉢       壱箇
   字門四百九十四番満福寺境内反別九畝廿三歩官有地
   右取調候処合計四項廿二点数現存。聊カ相違無之依テハ兼務及ヒ惣代者ニテ保護仕候也
   千葉県下総国香取郡多古村飯笹満福寺無住兼務
   千葉県上総国武射郡千代田村飯櫃蓮福寺住職
   千葉県上総国武射郡千代田村
   飯櫃中本寺蓮福寺門徒 律師 遠藤照宥
  右寺組寺惣代千葉県下総国香取郡多古村喜多花蔵院住職 教師試補 萩原宥證
   第十項 満福寺所有地
  字打手三五〇番地  畑七畝六歩
  〃打手三四二番地  〃四畝十七歩
  〃細田八二四番地  〃三畝四歩
  〃中宿九三二番地  〃三畝二十七歩
  字横堀九七八番地  畑九畝二十七歩
  〃馬場九二四番地  〃八畝二十歩
  〃中宿九九六番地  〃八畝八歩
  〃細田一〇一五番地 林四畝壱歩
  〃氏神一〇二五番地 〃二反六畝四歩
  〃〃〃一〇一七番地 〃九畝廿四歩
  〃タキ一二六六番地 〃七畝歩
  〃瓜谷(うりさく)二五七番地  〃八畝歩
  〃大蔵一三七四番地 〃九反八畝歩
   右之通り取調奉書上候処相違無之候也                  右檀家惣代
                                          萩原治助   印
                                          萩原五左衛門 印
                                          菅澤子之助  印
 
 年月の表記はないが、惣代三氏の氏名年代からみて明治中ごろのものと思われる。第三項より第八項までは前記住職によって無断処理されたものであり、この中には遠隔の地に売られた寺宝などがあったといわれている。
 右の品々はそのまま昭和二年の合併とともに地福寺の所有となって、第一項、第二項のものは現存し、山林の一部も残されている。山林の開墾されたものは、農地開放により耕作者の所有となった。