多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

飯笹(いいざさ)

宗教/神社・寺院

 木造堂宇の中に二軀の弘法大師石像があり、右には「南無遍照金剛不動院 施主三左衛門 文政十二己丑(一八二九)三月吉日」、左には「南無遍照金剛真光山満福寺 施主惣村中 文政十二己丑三月吉日」とそれぞれ刻まれているが、二像とも合寺した満福寺が所蔵していたもので、当寺にもとからあった大師像は、大栄町字夜番(やばん)に建てられた大師堂の本尊として移遷されたという(照憲師談)。
 当大師堂は、いわゆる大師巡りの第一九番で、御詠歌は「い徒(つ)かさて  し能(の)寿(す)まえ能(の)己(わ)がた知(ち)江(え) ぐ勢(せ)い乃(の)ふ袮(ね) 乃りてゐたらん」と、「与(よ)ろ徒(づ)代(よ)能(の)袮(ね)かひ越(お)古(こ)ゝ江まんくゎんじ(満願寺) ほ登(と)け乃知(ち)かひた能(の)毛(も)し起(き)か奈(な)」の二つがある。この十善講はいまも続けられているが、江戸時代末期に大師参りが幕府から厳しく戒められていたことがあり、そのことについて飯櫃の池田利左衛門家文書「弘化三年(一八四六)の諸用留」に次のように記されている。
 
     御廻達
  新規八十八ケ所と唱弘法大師安置新規小堂取払触
近年関東筋村々ニおゐて新規八拾八ケ所と唱、組合相立、寺院又者村持鎮守社地等江新規ニ小堂補理、弘法大師之像を安置以(い)多(た)し候儀追々相増、村方之もの共申合、巡拝と唱組々多人数ニて村々横行以多し、相互ニ接待抔と申成酒食等を茂以多し候より、農業怠り候の巳なら須(ず)、自然不取締之義も如何之哉と相聞、如何之次第ニて、右躰自侭ニ小堂補理新規之義執行致ス段心得違ニ付、取締之義、寺院之分者右寺社御奉行所江夫々御沙汰有之候条、其余村持之場所百姓共限り補理候小堂者村役人立合逸々取締、向後参詣ニ事寄セ遊興ケ間敷多人数申合巡拝等を企、聊ニ而茂農事を妨候筋も渉候義以多須間敷段、今般御奉行所より被仰渡候条得其意、組合村々無洩落申通厳重取払候様可致候。
此廻状刻付を以早々順達、留りより千住宿江向可被相返候。 以上
                                           関東御取締御出役
                                               中山誠一郎
                                               太田 源助
     午(弘化三年)四月十五日
 
 このことがあってからしばらくは自粛したが、明治維新以後再び復活した。その後は、第二次世界大戦中および戦後の一時期に多少衰微したものの、現在では追々盛んになっているようである。
 大師堂のわきに、高さ六十センチ余の碑が一基建てられている。そこには、飯笹村如意山地福寺住宥潭立之(梵字)四拾九院第廿九番弥勒法相院写 当寺本尊地蔵大士行基御作 文化四丁卯(一八〇七)十一月吉祥日」と刻まれている。「当寺本尊地蔵大士行基御作」とあることには注目したい。この右側面に和歌と思われる刻文があるが、判読は困難であった。
 右側の土手下にある文殊堂の石祠には、「二世大願悉地円満 宝暦六丙子天(一七五六) 当時現住宥延」。その右が稲荷宮で「如意山地福寺現住宥潭立之(文化三年)」。続いての廿三夜講塔には、「奉造立廿三夜尊所願成就祈所 明和第二乙酉天(一七六五)正月二十三日 願主 萩原平兵衛」と、それぞれ刻まれている。最も新しいのは本堂山門改修工事記念碑で、「昭和四十三年十二月吉日 地福寺三十八世住少僧正篠崎清憲代 後任篠崎照憲 責任役員半田照長 工事委員長萩原信次 副菅澤和亥 会計菅澤庄衛 仝国雄」とある。このとき、他県・市町村に住む地区出身者からも多額の寄付を仰ぎ、その数は二一八名に達した。