多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

飯笹(いいざさ)

宗教/神社・寺院

 境内左側に石碑が並び、寛政十三年につくった七段の石段を登ると、手洗い(明治二十五年造)、石造鳥居と続く。
 そこにある石碑は、御大典記念碑(大正五年)戦勝祈願碑(同七年)と宇賀神社無償譲与並大修理記念碑であるが、菅澤重雄書になるこの碑文には次のように当社の縁起にもふれている。
 
事業概要、一宇賀神社境内無償譲与、一社殿大修理、一大鳥居修理、一記念植樹、一皇産霊神社有償払下、一境内境界石建埋、一屋根塗替、以上、昭和二十六年十二月。
 抑も本社は人皇第三十三代推古天皇の御宇田村王の奏上に依り山背国飯成山より遷座鎮祭せられたるものにして、後陽成天皇の慶長以前は稲荷山と称する高燥の地に鎮座ましませしを、慶長十四年現在の処に社地を定め、松杉などを植林し社殿を造営並に玆に奉遷したるも、後社殿頽廃せるため明和八年之を改築、同年四月二日遷座式を施行、現在に至り、村民尊崇の的たりしなり。
 偶々昭和二十年八月十五日大平洋戦争敗戦の結果、神社の制度悉く改廃せられて、明治以来国有地として管理せられたる神社の境内は処分せらるる事となりたるにつき、時の宮司波木栄之助と氏子総代菅澤仲蔵、仝庄衛、仝武司、三氏相協りて拠証文書の探究及書類の作成をなし、昭和二十三年四月二十五日無償譲与申請書を呈出す(中略)。
 昭和二十五年十二月三日附指令社九八五三号をもって、譲与許可書を関東財務局長より交附受領を見るに至れり。実に境内総面積四千四十三・八九坪と、数百年を経過せる立木とも時価凡壱千万円也(後略)。
 
 もう一基は宇賀神社改修記念碑で、千葉県知事柴田等謹書とある刻文には「工事概要 本社屋根銅板葺替 社殿玉垣改修 総工費金七拾五万参千円也 起工昭和三十六年九月 竣工三十七年十二月 宇賀神社宮司小川恵見 氏子総代萩原万太郎 菅澤水男 伊藤栄治 菅澤正雄 萩原信次 菅澤武司 外百二十三人」とあり、その下部に「工事概要 総工費金五拾壱万壱千余円也 一社殿塗装並修理 一鳥居改修 一阿波神社(本社左側奥)改修 一昭和三十八年十月竣工 氏子総代萩原万太郎 菅澤水男 伊藤栄治 区長伊藤健二 代理者萩原喜久男 新井金寿 三橋芳雄」と改修工事関係事項が刻まれている。
 石造と木造の二つの鳥居をくぐり、数百年を経た松杉林の中を約二〇〇メートルほど東に進むと拝殿前広場に出る。この広場は、かつて神事や祭事、出征兵士の壮行会などが行われた場所である。
 拝殿前の二個の石造狐像は昭和九年一月吉日秋山寅雄寄進。同左にある二基の燈籠には「大正十二年六月吉日願主萩原治助」、「奉造立石燈爐一基 延享元甲子年(一七四四)五月吉日 下総国香取郡飯笹村中安全之処想氏子」と刻まれ、もう一基の燈籠は無刻銘である。
 次に金毘羅大権現祠が二基あり、「天明三癸卯(一七八三)九月吉日 萩原平左衛門」、「金毘羅宮 慶応二年寅(一八六六)三月日 惣村中 五左衛門 元右衛門 伝兵衛」とそれぞれ刻まれている。
 本殿北側隅の木造の比較的新しい小宮は昭和三十八年に改築されたもので阿波神社と称され、宮前には狐像が建てられている。
 その後方に疱瘡神二基が祀られている。右側のものには「寛政六年甲寅(一七九四)三月吉日 願主 当村菅澤   右門 萩原忠右門 惣村中」とあり、左側は無刻銘である。その右にある木造の小宮は祭神、願主、由緒ともに不明であるが「社寺台帳」にある愛宕神社と思われる。
 本殿右側の燈籠には正面に「奉造立皈命金鳥已己待為開眼 石燈 寛文第九己酉天(一六六九)正月大吉日 願主」、右側面に「勒弥院 多聞院 医王院」、左側面に「不動院 菅谷縫右衛門 飯塚  衛門 菅谷                」、と刻まれているが、右側面に刻まれた七人の名前は摩滅して判読不能である。
 また、境内社には次のような少祠が見られ、稲荷大明神、天満宮「昭和四六年六月吉日 大願成就 菅沢久丘衛」、大黒天、大黒尊天「文化元甲子(一八〇四)四月吉日 戒師如意山宥〓 願主当村三橋佐右衛門 萩原銀兵衛 同苗五左衛門半田伝兵衛 萩原平左衛門 同苗嘉左衛門 同苗七左衛門 惣村」、天神宮「明和七庚寅(一七七〇)六月吉日 施主萩原平左衛門」、無神名「宝暦四甲戌(一七五四)三月吉日 飯笹村」、天満宮「明和五戊子(一七六八)正月吉日 萩原平左衛門」、足尾山「安政二卯年(一八五五)十二月大吉日 五右衛門新兵衛」とそれぞれ刻まれている。
 ところで、字宮下と字辻屋台の中間から字宿の台に登る急坂を村人は「神楽坂(かぐらざか)」といっている。
 宇賀神社の大祭には、坂下の薬師堂前に一同が勢揃いして、笛、太鼓を先頭に、猿田彦の面を着けて八寸歯の高下駄を履いた若者が銀穂の槍を携え、その鉾先を左右に振りながらこの坂を登るのであるが、それはいかにも勇壮なものであった。
 その後に正装の神主が威儀を正し、次に稚児、羽織袴姿の氏子総代、一般氏子と続く数百人の行列であった。第一の鳥居をくぐるときは、「アンバ囃」を大声に唄い踊った。この大喚声は村内はもちろんのこと、上総国までも聞こえたという。
 この盛大な行列が通った坂であるところから、ここを神楽坂と呼ぶようになったということである。