多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

染井(そめい)

 中世の支配者
 中世、千葉氏およびその支族の支配下に置かれたことは隣村の例のごとくである。そのころ多古・染井付近を原郷と呼んだらしく、中山法華経寺史料中、元徳三年(一三三一)九月四日、千葉胤貞譲状に「下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地云々」、「千田庄原郷、中村、金原参ケ郷、田在家云々」、同胤貞書状に「原郷妙見御神田云々」とあり、延文五年(一三六〇)十一月二十九日、千葉胤継寄進状案に「原郷内谷内云々」、「原郷内多古村和泉公云々」とある。また、同史料中東松崎顕実寺文書、応永四年(一三九七)六月八日、日尊譲状に「千田庄原郷内多古村阿弥陀堂云々」。なおまた法華経寺の文禄三年(一五九四)七月二十日の回状に「多胡染井正光院」、慶長十一年(一六〇六)卯月二十六日の本末連判帳に「多胡正光院日芸」とあって、江戸時代以前の多古と染井は同じ原郷内の、同一地域であったように考えられる。
 またの説に原郷を小原郷、大原郷に分け、多古・染井は小原郷、林から間倉までの川向う九村を大原郷と呼んだとある(下総国旧事考)。
 天正五年(一五七七)卯月六日の多古妙光寺の鰐口には、「小原多胡妙印山妙光寺」と刻まれており、法華経寺の慶長十一年(一六〇六)の本末連判帳に「染井妙光寺」と記載されている。そのあたりの事情は判然としない。
 とにかく染井の原は当時の原郷名残りの地名であろうと思われる。千田庄内原郷の地域がどの辺まで及んだかはつまびらかでないが、『神代本千葉系図』によれば、平安時代(七九四~一一九二)の末期、千葉常永の子常宗がこの地方の豪族として支配し、初めて原氏を名乗り、その族は飯笹・大原・佐野・岩部・千田・牛尾・次浦などの地名を名乗って割拠していたことを載せている。
 鎌倉時代の末期から室町時代にかけて、千田庄は千葉胤貞の所領となった。庄内原郷のうち染井がこの支配下にあったことはいうまでもない。以来その族の支配が続き、戦国の末期に多古城主牛尾胤仲の所領となった。
 江戸時代以降の支配者
 天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東入国の後に旗本初鹿野伝右衛門、元和元年(一六一五)旗本三木十兵衛がその一部を知行地とし、寛永二年(一六二五)伝右衛門所領のうちの一部を分家初鹿野次郎左衛門に分けてからは、三給地として支配された。
 明治に至り宮谷県となり、明治四年新治県に属し、同八年千葉県管轄、同九年第十五大区一小区と称した。同十一年七月、郡内を九十連合村とし、多古・染井・島・水戸・千田の連合村となり、同十七年多古・染井連合村と改め、同二十二年、市町村制の施行により多古町の一区となった。
 次に、当地を知行地とした右の旗本三家について、『寛政重修諸家譜』から抜粋して簡単に記す(初鹿野氏については「東佐野」の項と一部重複するところもある)。
 初鹿野(はしかの)氏 初代昌久(まさひさ) 伝右衛門は、武田信玄・勝頼に仕え、天正三年(一五七五)長篠戦敗北のとき勝頼に従う。武田家没落の後、徳川家康に仕えた。同十八年(一五九〇)家康関東入国の後、采地を甲斐国から武蔵国足立、下総国葛飾・相馬・香取(染井・東佐野)の内に移され、七百石を知行した。寛永元年(一六二四)卒、八十四歳。武蔵国足立郡片柳村の万年寺に葬る。
 二代信吉 伝四郎・勘解由は父の跡を継ぎ、秀忠に仕えて書院番を勤めた。寛永二年(一六二五)九月二十二日卒、四十歳。
 三代昌次 伝右衛門は寛永二年遺跡を継ぎ七百石を知行し、三百石を弟次郎左衛門昌重に分けた。この時染井の一部百五十石を分割した。同十年(一六三三)常陸国鹿島郡で二百石加増された。正保元年(一六四四)と万治二年(一六五九)の二度にわたり、ゆえあって閉門となったがゆるされた。倉米(領地外の俸禄)六百俵(領地六百石相当)を受けた。寛文十一年(一六七一)三月十二日卒、年六十七歳。
 四代信只(ただ) 弥兵衛・市郎兵衛・伝右衛門は承応三年(一六五四)小姓組の番士となる。元禄十年(一六九七)倉米を下総国豊田郡の采地に改められ、すべて千二百石を知行することになった。正徳四年(一七一四)六月十二日卒、年八十歳。牛込宝泉寺に葬られたが、その後代々同家の菩提寺とした。
 五代信安 弾之助・伝右衛門は宝永二年(一七〇五)家を継ぎ、小姓組などを勤めた。享保五年(一七二〇)卒、年三十二歳。
 六代信定 半三郎・伝右衛門は享保六年(一七二一)家を継ぐ。宝暦三年(一七五三)卒、年四十八歳。
 七代信彭(ちか) 千之助・民部・清右衛門は元文元年(一七三六)家を継ぐ。明和八年(一七七一)卒、年五十四歳。
 八代信興(おき) 又八・伝右衛門(河内守従五位下)は明和七年(一七七〇)家を継ぐ。天明五年(一七八五)御目付となり、同七年浦賀奉行となる。同八年九月町奉行にすすみ、十二月従五位下河内守に叙任された。寛政三年(一七九一)卒、年四十八歳。
 九代英信(てるのぶ) 安之丞・伝右衛門は寛政四年(一七九二)家を継いだ。
 分家・初鹿野氏 初代昌重 次郎左衛門は寛永二年(一六二五)父の遺跡のうち三百石を分知されて分家した。そのうち百五十石が染井の地であった。同十年(一六三三)常陸国信太郡において二百石の加増を受け、大番、御広敷番頭を勤め、天和二年(一六八二)倉米二百俵を受ける。元禄九年(一六九六)五月十二日卒、年八十四歳。
 二代信泱(ひろ) 七郎右衛門・儀左衛門・兵右衛門は元禄九年(一六九六)遺跡を継ぎ、同十年倉米を改め、常陸国真壁郡において采地二百石を受け、すべて七百石を知行した。宝永七年(一七一〇)十月十四日卒、年五十八歳。
 三代信矩 六三郎・数馬・次郎左衛門は宝永七年家を継ぐ。宝暦十一年(一七六一)卒、年九十歳。
 四代信定 辰三郎・勘解由・次郎左衛門。寛延二年(一七四九)家を継ぐ、寛政六年(一七九四)卒、年七十四歳。四谷法蔵寺に葬る。後代々の葬地とした。
 五代信照 六三郎、天明元年(一七八一)家を継ぐ、寛政六年(一七九四)卒、年四十二歳。
 六代信友 安之丞、寛政六年家を継ぐ、時に二才。采地七百石。
 三木氏 直頼―良頼―自(より)綱(以上飛驒の国司)
 初代近綱(つな) 十兵衛、自綱の五男、母は斉藤道三の女である。天正十三年(一五八五)飛驒国(岐阜県)没落の後徳川の軍に入り、慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣、元和元年(一六一五)夏の陣に従軍し、戦功によって下総国香取郡において五百石を知行した(染井四六石三斗二升五合・観音村<旧香西>一七三石六斗七升五合・寺内村<旧瑞穂>二八〇石)。寛永六年(一六二九)卒、年五十三歳。浅草海禅寺に葬られ、後代々の葬地とした。
 二代春綱 八左衛門、寛永六年(一六二九)家を継ぎ、香取郡東松崎村のうちで二百石加増され、七百石となった。慶安三年(一六五〇)卒、年四十二歳。
 三代自宣(よりつね) 清左衛門、慶安三年家を継ぐ、時に十一歳。万治二年(一六五九)書院番士を勤めたが、元禄十年(一六九七)卒、年五十八歳。
 四代自常 平八郎・十兵衛、元禄十年家を継ぐ、元文元年(一七三六)十一月番を辞し小普請となる。同二年六月十三日卒、年六十四歳。
 五代自朗(よりあきら) 八十五郎・十兵衛・八十郎・八左衛門、元文二年(一七三七)家を継ぐ。小姓組に列す。宝暦六年(一七五六)卒、年四十四歳。
 六代自香(よりか) 八十五郎・兵庫・十兵衛、宝暦六年家を継ぐ、時に十七歳。采地七百石、安永八年(一七七九)。本城に勤務した。