多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

大原(おおばら)

路傍の小祠・石宮など

 庚申塔 字北の内四三四番鎮守入口の鳥居左手にある。正面に青面金剛と三猿が刻まれていて、「享保十二未年(一七二七)十一月八日 願主大原村善男子善女人」の文字が読みとれる。多くは道祖神と併立して街道沿いに建てられているが、ここに建てられているのは、何時のころか何処からか移されたものと思われる。
 十九夜塔 字北の内四三五の一番で、墓地の中にある。如意輪観音像を刻んだ石が三基あり、刻字の判読可能なものはその中の一基だけで、「明治三十四年二月十九日 十九夜講善女人中」このように刻まれている。特に女性の信仰を集め、厚く流水灌頂の行われるのはこの講である。
 この十九夜塔は川岸に建立されるのが普通であり、この石塔も多古橋川の川辺に建てられてあったが、昭和二十年代に河川改良事業が行われたとき現在地に移建されたものである。
 子安様 十九夜塔と同じ場所にある石宮で、「子安大明神 寛延元辰(一七四八)十一月吉日 願主大原邑善女人十余人」と刻字されている。安産を願う女性信仰で、子安講の本尊である。
 道祖神 字のの積場(つみば)三八六番地にある。西方から来るとき集落の入口に当たり、今も残っている字大手方面からの街道沿いの場所である。石宮には「道祖神」とだけ刻まれている。
 この石宮の真向かいは高い崖になっていて、むかし農馬が転落死したことがあり、飼主が馬の霊を慰めるために馬頭観音塔を建立したと伝えられているが、度重なる崖崩れのため道路が変形しているほどであることから、土砂に埋没してしまったのか、現在は見られない。
 地蔵尊 字諏訪崎五〇四番で、墓地の中に建立されている。石像のかたわらにある台石と思われる石に「法界万霊大原村中 願主善 元禄九丙子(一六九六)三月日」の文字が刻まれている。地蔵尊は真言宗派の墓地には必ずといってよいほど見受けられるもので、六道の衆生を救うと信じられている。不受不施派の村落として大原村は著名であるが、村の約半数の世帯が真言宗であった時代のもの、またはかくれ不受派時代のものでもあろうか。
 字山中台一〇九三の一番の墓地にも一基あり、「法界万霊成三菩提 享保丁未年(一七二七)施主   」と刻まれている。
 彰徳碑 字諏訪崎五〇四番の墓地に二基の石碑が建立されている。その古い方の一基には「壽僊墓」として、「花七日古(こ)と難(な)くくれて鐘の声」の句のほかに、「文久三癸亥年(一八六三)三月四日 大原村 井野村 飯笹村 多古村 筆子中」と刻まれている。塾を開いて地域の子弟に学問を授けた人の没後、筆子連中が師匠の徳を慕って建碑したものである。この壽僊は大谷・坂中家三代目を継いだ人で、寛政四年(一七九二)に生まれ、元治元年(一八六四)に七十二歳で没した。法名、霊峯院壽僊。人物の詳細については不明である。
 いま一基の石碑は、題字に「大谷樟原壽碑」とあり、台石正面に「筆子中 世話人大谷常蔵 大矢孝太郎 瓜生伊三郎 鈴木平助 斉藤市郎兵衛 斉藤松之助」の名があり、別面に門人と思われる四〇人の氏名が刻まれている。そして碑面には次のように刻まれている。
 
     大谷樟原壽碑(題字)
 郷之有耆宿薫勧漸磨習於善不自知 固非政法之可比而古来難乎得 其人君名惣右衛門字子真号樟原 北総香取郡喜多村人 受経於南総古河内 服務之暇聚徒教授及門者甚衆 豈予所謂耆宿其人耶而君非学究也 家世農在幕府時挙名主許帯刀 明治初補宮谷県租税課出仕 既而辞帰以男良太郎承後自老焉 今年六十有八 門人相謀乞建壽碑 不許 久而後可夫威儀言論式 老郷邑者雖無峻絶可驚之行独其生平雅言有足垂訓来葉者則壽碑之挙可以 世教况受業 諸子翕然好善非此無以慰其志而予亦楽言之也 因其請予文書於石以貽後之人
   明治廿五年六月                             勲六等石幡貞撰
                                         石工 南久次郎
 
 文政八年(一八二五)十四代大谷惣右衛門の嫡子として生まれ、幼名清助、号樟原、字名子直、名邦彦。十五代大谷惣右衛門を継ぎ、四男三女の父である。号樟原のいわれは、村に大昔楠の巨木があったと伝えられているところから出ている。楠はすなわち樟の木、原は大原の原と、原郷の原に拠ったものである。
 大谷家過去帳に次のような一文が記されてある。
「文政十一年戊子(一八二八)の正月大原楠の根にて玖數(珠数か)拵、右楠伐候は孝霊二年(七代孝霊天皇の代、弥生時代)と申し伝へたり。代々名主役を勤め、苗字帯刀を許され、自らも名主役を勤める。そのかたわら近郷の若者に学問を授けていた。
 明治改革の時、乞われて宮谷県庁租税課に勤務し、その職を退くと同時に長男良太郎に家督を譲って隠居した。これを知った門人たちは師の徳を後世に伝へたいとして、建碑の計画を師に話して許可を願い、再三懇請の後、明治二十五年ようやく承諾を得て、同家の塋域に石幡貞氏の撰文による師の寿碑を建立した。
 樟原はその後十数年、花鳥風月を供に悠々自適の生活を過ごし、明治四十年九月十八日没した。法号は信厚院清義日要である」。