多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

大原(おおばら)


 

 大原は北を東西に細く拓かれた水田(通称、井野谷津)をへだてて井野に接し、南はやはり細長く拓かれた水田(通称、大原谷津)をはさんで東台に接している。東は栗山川支流の多古橋川流域に展けている水田のむこうに染井地区の丘陵を望み、西には馬の背状の丘陵がつづいている。そして、平坦地はおもに畑、傾斜地は山林という現状で芝山町加茂集落に接している。
 加茂と大原の境界は、そのままかつての下総国と上総国の国境いであり、境界は飯笹の西北端から芝山町の吹入集落に至る道路(俗に境い道)によって示されている。この道路はかつては丘陵の尾根の山林中を蛇行する淋しい道であったが、農産物などを小荷駄馬で源田河岸へ運ぶ重要な道でもあった。現代になってからは道路事情の変遷にともない、交通量が減少して全くさびれてしまった。
 しかし、昭和五十五年、新東京国際空港の設置にともなう成田用水畑総改良事業の一環として、この国境い道は成田用水第一号幹線として幅員一〇メートルの産業道路となり、面目を一新した。
 下総と上総、香取郡と山武郡、多古町と芝山町、大原と加茂を分けるこの道路上に立つと、新東京国際空港の建物をまぢかに望見でき、国際線航空機が頻繁に離着陸し、わずかに残されている昔ながらの自然と近代科学の先端が寄り合って、まさに現代の縮図を見る思いがする。
 「大原」の呼称は、現在の行政区画上の「区」としては使われず、多古町喜多区内に、大字「喜多大原」として残っている。大原村とは明治以前の村名、すなわち下総国香取郡大原村を指している。しかし、大原の呼び名は地元の人にはなじみが深く、現在でも普段にはそう呼ばれている。
 まず大原の現況(昭和五十九年十一月現在)を見ると次のとおりである。
 
  宅地  二町二反七畝二二歩
  田   三町九反二畝二〇歩(土地改良により大字喜多へ編入、東台に含まれる)
  畑   二二町五反四畝一八歩
  山林  三六町五反五畝一四歩
  原野  一二歩
  池沼  六畝一三歩
  その他 七反四歩
   計  六六町七畝一三歩
  世帯数 三〇戸
  人口  一二八人 男五九人 女六九人
 
 世帯数、人口は昭和五十九年十月現在である。
 田畑山林の面積割合は、典型的な古村型のそれと見ることができる。自給自足が生活の原則であった昔日の農村にあって、まず大原は恵まれた村であった。残されている資料によって調査すると、最も近い時期のものに明治初期の『地引帳』がある。それを集計すると次のとおりになる(人口については明治十年戸籍簿の集計による)。
 
    右寄
 一、合反別五拾九町八反五歩
 内
 田 拾五町八反四畝拾歩
 畑 九町九反八畝壱歩
 宅地 壱町四反廿壱歩
 林地 三拾町六反六歩
 木立地 壱町六反廿八歩
 芝地 壱反九畝拾弐歩
 藪地 四畝壱歩
 山地 壱反弐畝拾六歩
     外
 一、官有地 壱反八畝拾四歩
 一、墓所 四反弐畝廿六歩
 一、成就院敷地 四畝三歩
 一、馬療場 三畝歩
 一、斃馬捨場 四畝六歩
 一、秣場 四町六反四畝歩(官有地)
 右者、今般税法御改正ニ付、銘々持地私共立会、従前隠田切開縄伸之類迠、地毎取調ケ所落者勿論隠地等一切無御座候。若心得違之儀有之、後日相顕ルニ於而者、如何様之御処分有之候共、毛頭申分無御座候。
 依之地主一同調印ヲ以奉差上候。以上
                                下総国香取郡大原村
                                  関渉人 大谷嘉右衛門
   明治八年十月                             大矢縫左衛門
                                      田辺清兵衛
                                  農総代 大島栄司
                                  戸長  大谷惣右衛門
    千葉県令柴原和殿
人口 一三二人 男六四人 女六八人
世帯 二二戸
 
 この資料以外に大原に現存する資料としては、「明治八年四月・林地並百姓山議定書」、「明治七年五月・山地所売払ニ付議定書」、「明治六年九月・道幅改議定書」、「明治六年十一月・地券御改正ニ付議定書、差出申議定書之事」、「寛政十年(一七九八)十月・当午可納御年貢割付之事」、「正徳元年(一七一一)・下総国香取郡大原村卯ノ御年貢可割付之事」、「宝永四年(一七〇七)・下総国香取郡大原村宗旨人別改帳」、「延宝八年申(一六八〇)・御年貢納方並払御勘定帳」、「万治元年(一六五八)・御年貢米納方払御勘定帳」などがある。
 以上の資料中、正徳水帳は形もほぼ完全であり、宝永四年の宗旨人別改帳は用式例であるが、そこには、実際には村人の大多数が不受不施派信者であるにもかかわらず、当然ではあるが、切支丹(キリシタン)および不受不施派その他禁教の者はいないと書かれている。明治六年の議定書を見ると、署名人は一五名。安政六年(一八五九)の議定書署名人一四名。そして宝暦年間の連判署名人は成就院を除いて一六名であるところから、江戸期の大原村世帯数はほぼ一五戸前後ぐらいであったと推定される。
 歴史の古い村としては資料が少ないことに奇異を感ずるむきもあろうが、それは名主役を務めた大谷惣右衛門家が二度の火難に遭い、保管していた文書も焼失したためであるといわれている。