多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

東台(ひがしだい)

人物

 秋葉確蔵と学校
 秋葉確蔵は、旭小学校(多古第二小学校の前身)訓導、また校長として多くの子弟を薫陶した人である。
 山武郡二川村(芝山町)境の人で、嘉永六年(一八五三)三月七日幸左衛門家に生まれ、確蔵と名づけられた。漢学を並木栗水に学び、数理は木川忠兵衛の教えを受けて、明治十一年に千葉師範学校を卒業した。
 ちょうどその二年前の明治九年九月に多古小学校の分校が井野華蔵院に設けられ、喜多・五反田・飯笹・間倉・一鍬田を学区とした。つづいて同十一年に行政区画の変更があって、飯笹・間倉・一鍬田で一区画、喜多・林・五反田で一区画がそれぞれつくられ、一行政区画ごとに一小学校設置ということに改められ、飯笹・間倉・一鍬田連合村では飯笹万福寺に小学校を設立した。
 喜多・林・五反田連合村では、従来の井野の華蔵院では位置が片寄り過ぎるためにこの年の十一月に東台の本還寺に小学校を移したが、林の児童は多古本校に通学することとなったので、喜多と五反田だけの学校となった。確蔵は、この学校へ同十六年五月に赴任した。
 同十八年になると再び行政区画が改正され、飯笹・間倉・一鍬田連合村と喜多・五反田連合村が合併されて一つの行政区画となった。このことによって学校も一校となり、校舎は再び井野華蔵院に移されて、華蔵院校舎と飯笹分教場は一校となり、ここに中等小学喜多小学校として独立した。
 同二十年に確蔵は訓導兼校長となったが、同二十二年三月をもっていったん退職した。
 その後学校は同年十一月から「旭尋常小学校」と改称され、やがて同二十四年九月十九日に井野天神脇に新しい校舎が建設落成し、これまでの飯笹分教場、井野華蔵院校舎はともに閉鎖された。
 そして確蔵は、同二十六年七月に再び訓導として教壇に立ち、同三十六年四月(碑文には明治三十七年と)病気のため退職するまで旭小学校に教鞭をとったのである。退職後は専ら療養につとめたが薬石の効なく、同四十四年二月十一日東台の自宅において永眠した。五十八歳であった。
 「報徳碑」と題する碑が字松原八五一番地にあるが、これは師の功績を永く伝えんがため、教え子たちによって大正元年十二月十六日、住居の一隅に建てられたものである。
 題字は当時の千葉師範学校長里村勝次郎の筆になり、撰文は北総存軒渡邊操、書は安藤毅洞である。
 山口東岱(とうたい)
 まずその碑は、「東岱翁表碑」と題して字妙見前一〇〇〇番地の共同墓地の一角に建っている。
 徳川時代の末から公立の学校がつくられる明治初年まで、数代続いた医業のかたわら漢学を教えた人で、当時初等教育であった寺子屋よりは水準の高い教育をほどこしたようである。そのため子弟は村内近郷ばかりでなく広く他郡からも集まり、建碑に賛同した門人達の出身村名をみると喜多・飯笹をはじめとし林・一鍬田・久賀・東條から、岩部・二川・千代田・日吉倉・佐原・大平(松尾町)・二宮本郷(茂原市)に及んでいる。
 東岱は、碑文冒頭に「君姓山口氏 諱昭徳・称揚順・號東岱―」とあるように、喜多村東台九八五番地で医師山口圭斉の長男として、天保七年(一八三六)十一月二十五日に生まれ、江戸遊学の後父のあとを継いだ。医師として、また教育者として広く社会に貢献し、明治三十七年十月三十一日に亡くなった。
 生前に翁の人徳を後世に伝えようとする気運が門人達の間に起こり、再三にわたって建碑を懇請したが東岱はこれを固辞し続け、明治二十四年になってようやくこれを受けたという。そして、このときの心境を碑の冒頭に「人々の(の)春ゝ免(すすめ)い奈ミ(なみ)がたくて 昭徳」と示し、次のような和歌を一首刻んでいる。
 
   寄波乃(よるなみの) いやしろ/゛\に(に) 者(は)ま千鳥
     阿(あ)と耳(に)のこ類は(るは) 恥可(か)しき可難(かな)
 
 撰文は文章博士従四位中村正、書は春城田である。建碑の世話人には次の名が見られる。萩原長吉・佐藤勘治・松本長太郎・小野田勇助・飯田芳蔵・佐藤丑之助・木内豊吉・鈴木善作・山口庄蔵・並木文蔵・佐藤源兵衛・木内彦左衛門。
 松本高三郎
 右に記した東岱の三男として、明治五年八月七日に生まれた。十四歳で小学校課程を終了したときの旭小学校長秋葉確蔵が、彼の学業の優秀さをたたえ、賞揚してやまなかったという。明治三十二年、千代田村(芝山町)飯櫃出身で京都府知事などを勤めた木内重四郎がこれを聞き、しきりと出京をすすめたので、木内氏を頼って上京し、小池(芝山町)出身の伊東祐之の許に身を寄せ、独乙(ドイツ)語専修学校に学んだが、学制改革のため同校が閉ざされたので、神田共立英語学校に転校し四年の課程を終えた。
 そのころの一時期、医学を目指した初志を捨てて文学で身を立てようとしたこともあったようだが、父兄の説得を受け入れて再び医学にすすむこととし、明治二十七年熊本第五高等学校に入学、同校を卒業したのち東京帝国大学医学部に入学、同三十七年十二月二十三日卒業して、翌明治三十八年一月十八日から、母校東大医学部の助手となった。この年の七月東京都麴町区内幸町の松本家を継ぐことになり、姓が山口から松本に変わった。
 同四十年九月十三日から千葉医学専門学校教授として同校に赴任した。専門は恩師呉秀三教授の専門をそのまま継承し、精神病学・神経系統の解剖で、同四十三年には大学内に精神病棟を新築することに力を尽くした。
 依嘱を受けた職務としては、同四十年県立千葉病院長、四十一年日本赤十字社千葉支部救護員養成所講師、四十二年看護婦教習所講師、同仁会千葉支部評議員、千葉地方裁判所犯罪精神病鑑定医などを重任し、大正十三年二月からは、千葉医科大学長兼教授として医科大学の整備拡充に力を注いだ。昭和四年八月までこの職にとどまり、後は教授として昭和八年九月に退官するまで、研究と臨床と学生の教育に専念した。退官後は名誉教授の称号を授与され、昭和二十七年七月十日、八十一歳をもって長逝した。
 分骨された墓石は郷里東台の妙見前墓地に、父東岱の碑と向かい合って建立されている。法号は「妙法東籬院秀英日薫沙弥位」とあり、位階は従三位勲二等医学博士と刻まれている。