多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

東台(ひがしだい)

 普通、明治以後開拓された地帯を開墾と呼び、これに対して、それ以前から人々の定住した東台などを古村と呼ぶが、このあたりの古村の起こりは諸説まちまちで、一概には定めがたい。
 このあたり一帯が千田庄原郷と呼ばれていたことは、数多の史書に記されているところである。ここに、その事実を裏付ける反面、幾つかの謎を投げかけている一枚の板碑が現存している。その板碑はかつて池畔の踏板とされていたものを、破損、散逸を憂えた郷土史家達によって、現在地の星之宮神社境内に移されたものといわれているが、最初に発見され、置かれてあった場所はどこか知るよしもなく、また古老も知らない。

東台板碑

 その碑には次のような文字が刻まれている。
 
       平喜阿
  右意趣者為
  一結百五十人
  逆修  
  廿八人〓(菩提)也
  永和元年[乙卯]
  四月廿五日敬白
 
 台石には、「昭和三十六年二月二十六日再建 多古町郷土誌編集委員会 石工南栄司」とある。まずこの文面を文字どおりに考察してみると、永和元年(一三七五)四月二十五日に平喜阿という人物が、同志一五〇人の生前供養と、すでに亡くなっている二八人の人々の菩提を弔うために建てたものと解釈される。
 建立者であろうと思われる平喜阿とはいかなる人物であるかを知るために、永和のころこの地方の統治者であった千葉氏を『松蘿館本千葉系図』によって調べると、十五代千葉介貞胤の項に次のような一節がある。
 
 千葉介、元弘三年(一三三三)五月十六日始テ義貞(新田)ニ属、武蔵金澤貞將ト武州鶴見ニ戦有功、建武二年(一三三五)十一月八日伐尊氏(足利)、建武四年(一三三七)正十二月日北国下降義貞ノ後陣トナル、五百騎ニテ打ケルガ雪ニ道ヲ迷ヒ、味方ニハナレ敵陣ヘ迷ヒ出、尾張守高經インキンニ使ヲツカハスユヱニ高經ニ属スト、参考太平記ニ出、観応二年(一三五一)正月朔卒年六十一、法名喜阿弥陀仏号浄徳寺。
 
 この一文によれば、平喜阿なる人が十五代千葉介貞胤であることになる。貞胤は千葉氏総本家の統領で千葉城の城主である。
 この貞胤の活躍したころは建武の中興が行われた時代で、朝廷方に味方して、官軍として一身の繁栄をはかるか、ときの将軍方について安泰を得るか、国の政治の実権を旧に復そうとする朝廷方と、武力によってこれを奪おうとする武家方との間に立つ地方武士は、身の去就に心を悩ました時代でもあった。
 千葉氏のみでなく、関東の豪族は、ときに、父子、兄弟相分れて戦ったのである。多古町域では建武三年(一三三六)七月二十七日に千葉城主貞胤軍が、千田庄軍を攻めた土橋城の戦があり、それは今に伝えられている。
 こうした社会情勢であったために逆修、すなわち自ら生きているうちに己の菩提を弔うようなことが行われたのではあるまいか。
 このほかにもこの碑には疑問がある。まず建立の時代である。碑文に刻まれた永和元年(一三七五)には、法号を平喜阿といった貞胤は正平六年(一三五一)すでに没して孫満胤の時代になっている。さらに千田庄を攻めた貞胤の供養碑がなにゆえに千田庄内に建てられたのか。さきの『松蘿館本千葉系図』では貞胤の法名が喜阿弥陀仏となっているが、『千葉大系図』では善珍常徳法阿弥陀仏となっている。また逆修についての考え方も狭義であるかもしれない。今にわかにこれらについてを立証することはできないが、町史における今後の課題として重要なことであろう。
 見方によっては、史上に名をとどめる武将の供養塔が建てられ、建武の時代に彼我攻防の的となっていたことは、この地が戦略の拠点であり、それだけ開拓や文化の進んだ土地であったことを如実に物語るものといえよう。