多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

中佐野(なかさの)

家伝の薬

 「保童丸(ほどうがん)」と呼ばれる漢方薬が医家佐久間家に家伝として伝えられている。通称「佐野の薬」といわれ、幼児の万能薬、特に疳の薬として、第二次大戦後医薬法が改正されるまで製造販売されていた。販布された地域は下総・上総・常陸の国々にまで及んでいたようである。

保童丸の看板

 ここで、佐久間家についての概要を記すが、字桜井谷に住居していたため村人から「桜井の家」と呼ばれている同家は、十一代にわたって医業を継ぎ、九代目で最終の漢方医であった宗庵は、明治天皇の侍医を勤めた浅田宗伯の門人であった。
 元和の始め(一六一五)ごろは豊臣方の武将後藤氏の侍医で、同じく「後藤」を姓としていた。関ケ原の合戦後は落人となって各地を転々とし、いったん五反田に落ち着いたが再び中佐野に移ったものという。そして追手の目を逃れるために、仮寓していた佐久間氏の姓を借り、以後「後藤」から「佐久間」を名乗るようになったといわれ、また、桜井谷の農家佐久間氏へ入聟したとも伝えられている。
 保身のために医術を表に出さず、農業を行うかたわら村人に対しては秘かに施療をしていたが、家伝の秘薬処方の一巻は、常に肌身離さず持ち続けたという。
 やがて名主役なども勤め、「保童丸」の販路も拡張され、住込み奉公人を含めた家族の人数は二十人余となり、入って来る年貢米も三〇〇俵を超える身代となったが、かつて落人として零落した身をかばってくれた村人たちへの恩義を忘れることはなく、同家が村へ尽くした篤行は枚挙にいとまがないほどである。神社・仏閣への寄進をはじめ、村落の各行事に対しては、その総額の七割方を負担したということである。
 佐久間家に保存されている文書は、初代が懐中してかたときも離さなかった家伝薬の一巻(「家秘得効録」には「一子相伝他語ヲ悉禁者也」と付記されている)をはじめ、「家方録」・「奇効良方」など漢方の専門書が多く、素人には容易に解読し得ないものがほとんどである。その中でようやく解読した一点には「保童丸」の効能部分について次のように記している。
 
其ノ最モ奇功ヲ奏スルハ小児二、三歳若シクハ四、五歳。別ニ他ノ患フル所ナク一日二、三回若シクハ数十回大声泣キ絶ヒテ機転全ク絶フルニ至リ面色紫黒唇口厚色全ク変ジ、少時ニシテ機転復活呱ニ声ヲ発シ常ニ復スル者、其症状甚癲癎ニ似タリ。若症他医如何程工夫療治スルトモ功ナシ。此方ヲ与フルトキハ云々
 
 いまも同家には、昔日を忘れず、主家の再興を祈って植えたという「サイカチ」の二代目が庭の一隅に聳えている。