多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

中佐野(なかさの)

路傍の小祠・石宮など

 他宗との交わりを避けるというより、他宗をきびしく排撃するほど激しい教義を持つ不受不施派信仰の集落だけに、他と比べて野仏や石宮の数はいたって少ない。
 道祖神 その一つは、昔の江戸街道であって東佐野へ通ずる旧道沿いの、字新田五七三番付近にあったというが、今は荒れ藪に覆われて影さえも見当たらない。
 もう一つは字五領八八〇番地先にあるが、街道から分かれて集落への入口であった旧位置から、山崩れにあったため胴石と蓋石が別々になって置かれている。これも面影をとどめるのみで、刻字は読み取ることができない。
 稲荷社 字向山の山林中にあったという口碑はあるが、現在では位置を確かめることさえ難しい。しかし小野田与惣兵衛日記の明治二年の項に「二月四日初午(はつうま)御奉仕当番新右衛門」と記されていることから、このころまでは祀られていて、初午の当番順なども決められていたのであろう。
 なお、医師佐久間家屋敷内に稲荷様が祀られているが、この稲荷様は大正期には賑やかな祭りが催された。幟が立ち、笛・太鼓が打鳴らされ、お囃しもあって、参詣の子供達には菓子が振舞われた。
 このように初午祭りを佐久間家で行っていたといわれるが、向山の稲荷社との関係は明らかではない。
 馬頭観音 字五領八七七番の山林に建っている石宮で、大正四年八月の建立である。これは医家佐久間家が、かつて患家の住来に乗った馬を葬った場所に建立したものである。同じ字内にある道祖神とともに同家によって手厚く保護されている。
 天神社 字寺の下九二八番の林の中にあるが、野に立つ神というより小野田家の氏神であるらしい。一月二十五日の天神祭もいまは小野田一族で行っている。
 この社についても与惣兵衛日記には明治二年に天神御奉社を当番新五右衛門家で行ったことが記され、さらに『年中行事』には「氏神天満宮之儀ハ享保十一午(一七二六)二月建立ス、願意ハ某十五歳より発願ニ而、右之通り午ノ年より新社取立建立ス」とある。
 弁天社 字谷ノ内九四八番にあり、この社ぐらい建立の来歴を明らかにしているものは少ない。『年中行事』の一節に次のように記されている。「惣社弁天宮之建立之儀ハ、同(享保)十六年亥(一七三一)六月より企チ(テ)九月十月(日)より細工以たし極月(十二月)十五日ニ建立成就ス。其節歳番役与惣兵衛 長五郎、大工ハ多古村之儀右衛門(ニ)シテ東台平七郎、木挽同村太兵衛、委細ハ棟札ニ記ス。別ニ某御経ヲ十巻奉誦御開眼仕御札奉納者也。右社地ハ長五郎 善兵衛 与惣兵衛居山社地ニ寄進シ、社地の普請成就ス」とあり、高欄・擬宝珠の金具には「下総国香取郡中佐野村鎮守弁才天女守 享保十六辛亥年霜月吉日 作小幡内匠」と刻まれていて、月日などについて差異はあるものの創始年は符合している。そしてこのころは弁才天が村の鎮守であったようである。また、この時代に建てられて残っているものは前記の擬宝珠だけで、木造部分は昭和四十六年の山崩れによって潰され、現在はコンクリート造りのものになっている。

弁天社